心は神明の舎(やど)るところであり。一身の主宰である。
万善(全ての善)を抱合し、万里(すべての道理)を備えている。
また、五倫(仁義礼智信、五つの人倫の道)、百行(すべての行為)は、心に由って出てくるのである。
故に己自身を修め、人を度(すく)い、道をひろめ、世を救うには、心体の根本のところより、恒(つね)に主宰を存するようにし、そして、心術の隠微(自分が隠そうとする悪の部分)なところにおいて、真源を清め澄まし。妄念を取り去って、自らを救い、心を明らかにして、意を誠にすべきである。
それが、本来、心を正すことであり、又、心を治める最も大切な功夫でもあり、これらは、みな自らその心を養うところの所以である。
尚書で明示している、「人心惟れ危うく、道心惟れ微(かす)かなり、惟れ精惟れ一、允(まこと)に厥(そ)の中を執れ」の
十六字の心伝では、先ず人心と道心の危うさと、微かを示している。
性徳(天より授かった本性自然の徳)より発して、天理に純なるものを道心といい、物欲に引きずられて欲望に従うものを人心という。
本来は一つの心であって二つの名前を(道心と、人心)をもっている。
これらは、「操(と)れば、則ち存し、捨つれば則ち亡ぶ」のである。
(鬼雷述べる、操るとは、自己の本来の面目たる、自己の良神である。自己の良神を捨てれば、また、気付かねば、永遠に真の自己を悟れない。)
人として、この肉体を備えている以上、たとえ、聖人賢人といえども、人心が無いということは、ありえない。
また、人としての本性(天から授かった本質)を備えている以上、たとえ下愚(凡愚)といえども、道心がないということは、ありえない。
人心もこれを本性に収回(かえ)せば、道心となり、道心もこれを放失すれば、人心となる。
これによっても人心の危と道心の微の枢機(かなめ)、隠と顕の差異(ちがい)を知ることが出来る。
そこで、己自身を修める者は、片時といえども、これを養うことを忘れてはならないのである。
おもうに、方寸の間(心の中)には、天理と人欲が並び立って共存することはできないし、また、人と禽獣の異なる点は、ごく僅かである。
それは、道心を存しているか、否かによって人と禽獣とが分かれてくる。
すべて、善と悪、正と邪、誠と偽、信と妄、義と利、公と私がみなそうである。
本心の良知に於いては、いささかたりとも不純物を容れることは出来ない。
そこで、その動機発端の初めにおいて、どうして自分自身を欺くことができるのであろうか。
その心の出入、向背や危うき人心と微かな道心の移り変わりのキーポイントを追求して極めて行けば、すべてがこの心に基づくのである。
故に心を治めるとは実に心を養う事である。
孟子は、心を養うは、寡欲(欲望を少なくする)より善きはなしと。
人は欲望が多くてこれを節制することを知らない。
そこでその本心を失わない者はないのである。
故に能く天理(道心)の真に徹し、道化の善美を拡め、敬(一を主として、他に心が適(い)かない。)を立て、神を守り存し、独りを慎んで妄念に打ち克ち、中を守り、和を含み、善を楽しみ、義を集める。
など、これらは、みな、心を治め心を養うところの、精髄である。