玄徳道

道を語るブログです。

伊勢白山道と老子

2013-12-01 13:23:06 | 宗教
まず、伊勢白山道リーマン氏には耳が痛い話である事をお許しください。また、善良なる信仰熱信で常に感謝想起をされている伊勢白山道登山者の方々には御不快と思われる方がおられると思います。あくまでも、私、個人の見解であります。どうか寛容な心で読んでいただく事を希望致します。

かつて、私は伊勢白山道リーマン氏のコメ欄に参画させていただいておりました。現在は、鬼雷のハンドルネームでは掲載される事はありません。正し、他のネームに変えると容易く、アップして下さいます。当然、厳しい意見は載りません。少々、オベッカを使い、ヨイショすれば、簡単に掲載して下さいます。
何年か前に、リーマン氏のブログで「神の計画」という言葉が文章の中に出てきましたので、私は彼のコメ欄に「神様は自然の基であり、「無為自然」あります。天地を育み、悠久なる宇宙を運行され、人間如きの知覚ではその全容を感知する事は出来ません。人間側や幽界なる存在が勝手に経綸や計画としているに過ぎません。神様に計画はありません。・・・」
特に質問をしたわけではありませんが、リーマン氏から返答がありました。ただし、私が書いたコメントをリーマン氏の都合のよいよう全文を載せずにカットし、返答を頂きました。
「。。。では、何故進化が起こるのか考えましょう。何故、ビックバーンという呼吸をするのか考えましょう。それは生かしたかったと言う事。これを計画と言います。」
一部、龍神界や仙界では経綸や神の計画という神示と称するものを出しておりますが、あくまでも幽界が主宰であり、多くの霊能力者は幽界なる世界を垣間見、憑依され、霊言や自動書記と言う容(かたち)をとっているようです。普遍意識や内なる神に目覚めた霊覚者の書物を観れば、根源たる神は大いなる宇宙の運行を司り、あくまでも人間の自主性を大切にし、時には天助も授けますが自立を望んでおられるようです。そこにあるのは大いなる愛でもあります。無償の愛、無為の愛です。

リーマン氏の霊覚(リーマン氏を憑依する幽界の存在による霊能力。リーマン氏はその憑依する幽界の存在を眷属神と名付けておられる)リーディングによる老子は9次元(リーマン氏特有の次元の存在で1から11まである。)とし、「。。。老子は北極星から来た魂。。。。老子は同じ国へと何度も転生した。。。。(その理由は)中国が大国となること、住民が理解する知能を有するからです。」
北極星云々は、神秘性を高めたい、眷属神の指示であるのでしょうか。霊能の世界は想念の世界ですから、100通りの見方もあり、それをまともに受ける純粋な信者は可哀そうです。老子は道徳経の中で、民は少なく、国は小さく、文明は発達しない方が世の中は良く治まると書いていたのですが、中国を大国にする?。意味が不明な所はやはり、霊能力だからですかね。多くの霊能力者は自己の観た世界が正しく、自己を憑依し、霊力を授ける存在を神とし、盲信してしまい、偏るのです。

ちなみに、ある方の質問に対し、リーマン氏は「。。。老子を解釈できる人は今の日本に居ないと思えば良いです。」と主張しておきながら、自分のみが老子を解釈できると言わんばかりに、「超訳 老子」をブログで書きだしました。老子を解釈し、訳をつけるのは自由なのですが、訳の上に「超」をつけるのは何故なのでしょうか。私は伊勢白山道リーマン氏の奢りが観えたような気がしました。それゆえかリーマン氏がブログを書籍にされた時は反省されたのでしょうか、谷川太一という変名を使い「柔訳 老子の言葉」とされておられますね。ただの「訳」に出来ないのでしょうかね。「超」も「柔」もリーマン氏の自尊の現れなのでしょうね。

また、ある質問では「論語や老子、初期仏典の中には東洋の叡智や生きて行く上で大切な愛、慈悲、施し、思い遣りなどのヒントになる逸話や箴言も沢山含まれていますがそういう古典を「自分道」を生きる上でのヒントとする読み方については問題ないと考えておりますがリーマンさんの見解はいかがでしょうか。?」伊勢白山道リーマン氏はバッサリと「。。。読んだ事は忘れる事です。」
しかし、伊勢白山道リーマン氏は御自分の著書「老子の言葉」のみは、いつも手元に置いて、読んでいると言っています。読者にも買え買えのアピールです。おおよそ、彼の質問の回答は、自分勝手なのかもしれません。

古典や書物は幅広く偏らず参考程度に多く読めば良いとおもいます。

また、リーマン氏は老子こそが内在神の正体を知っていたとされて、驚かされておられますが、リーマン氏が普遍意識に辿りついていない事を自らが暴露している事なります。「内在神」と言う言葉が広まる前に、神言会の上野公園氏は「良心神」を宣言されておられますし、出口王仁三郎も内なる神に言及されておられる。キリスト教でも「内なるキリスト」「内なる光」を顕わし、禅でも「祖父母以前の自己本来の面目」内なる悟りを顕わしています。老子は、「大道」「無為自然」をあらわし、太古の王道は「道心」修道を顕わす。伊勢白山道氏は自己の内在神を掲げる為に老子を利用されている感があります。
実に「内在神」が伊勢白山道リーマン氏の専売特許ではありません。太古より、語り継がれている道であるのです。

伊勢白山道リーマン氏は「老子の言葉 写真集」を発売されました。上下巻とし、易経を真似て、陰陽にしたと言われております。老子の道徳経が40章+41章あり、それをお得意のリーディングにより、「私の感得では、老子の81章は「易経」を凌駕しています。まさに宇宙を表現しています。」
その理由と言うのが老子は9次元×9次元で81。40章+41章で81章であり、易経は上経30+下経34で64の形象しかないので、81の老子の方が勝っていると言う、小学生的発想です。
古典には様々な学びがあり、それを学ぶ人間側により、その自己の宇宙は狭くも広まりもするのです。老子が高く、易経が低いとする伊勢白山道氏には偏見があるようです。
ちなみに易経は孔子が本がボロボロになるほど熟読したほどの経典であり、占なる道も含まれますがそれが本質ではありません。天地人、三才の道を包尽し、陰陽、二爻を以って組織せられた64卦384爻の中に道が表現されています。上は天地の理、神明の情より下は修養処世の要諦にいたるまでに余すところなく包含されているのです。

それでも、老子を世に広めた功績は、立派であります。


最近では伊勢白山道リーマン氏は本の出版を続け、伊勢白山道は世に広まりつつあり、多くの人が5%運動は確実に行っておられるのに文明による自然災害は増え、異常気象による天災も増えています。5%運動の効用は如何にあるのでしょうか?。伊勢白山道を信じ、リーマン氏が掲げる神を信じる人に癌患者の方がおられます。よくコメント欄で見かけておりましたが、病はますます悪くなられておられました。完治しないのは何故なのでしょうか。先祖供養を行い感謝すれば、細胞の歪みが治るはずでは?と考えます。。感謝想起は自然災害を防災するとされるが防げていないのが現実であるようです。尚且つ、感謝は人を容易に覚者へと覚醒させると称していますのに、伊勢白山道から覚醒者が出ている様子を感じません。何故でしょうか。彼のコメント欄を見れば一目量然であると言うことが解かりました。

伊勢白山道リーマン氏が出した本に「読むだけで人生が変るたった一つの方法」があります。リーマン氏はこの本を質問者に対し、伊勢白山道の知識がない者、未熟な者に、悩める、苦しむ者に本を読め読め、再読再読とこの本を暗誦できるほど読めと言っておられるようです。ここに実は落とし穴があると考えます。内在神を見出すには、自己の努力、真心込めた社会生活、自分の道しかありません。しかし、リーマン氏自身が伊勢白山道で言う外在神の働きをされておられるからです。何故ならば、本を読んだ人間は、それを盲信し、それが真実であると思い、リーマン氏が創った言葉の像を内在神であると思い、惑わせるからです。内在神は覚醒です。自己覚醒です。覚神に他者は一切関与しません。本来、基本を学べば。伊勢白山道から離れ、自分道に帰依しなければならないのですが、多くの登山者はリーマン氏のみが絶対であるように盲信しているのが現状であります。これでは宗教熱心な信者が教主に盲信するのと何ら変わりがないのですから。


葦原瑞穂氏著「黎明」より

「その人の霊的成長に関わるもので外部から簡単に答えを与えてしまえば、その人の疑問から解放されるかもしれませんが、その人が自分の内側からその答えを引きだした時に得られる、大きな進歩を奪ってしまうことになります。普遍意識は宇宙の全てを経験している無限の叡智ですから、自分にとって未知なものはありません。ですから「解からない」という否定的な想念を持つことや外側の書物や誰かに答えを求めることは、この普遍意識と自分との分離の波動を生じることによって、誰もが持っている智慧の通路を閉ざしてしまうことになるのです。
従って普遍意識の顕現を今生でめざそうとされる方は、今後いっさいの答えを外側に求めることなく、自分の内側から引き出すように努力されることが、御自身の確実な進歩につながると言うことを理解していただきたいと思います。」

普遍意識、共有意識に関する、リーマン氏への質問で「人類の共有意識に溶け込んだ方はキリストや老子、男性ばかりで女性にはいないのでしょうか。女性は難しいのでしょうか。」リーマン氏返答「。。。生理が終わってから可能性があります。」
生理は、女性の体内の無為自然の働きです。覚醒し、普遍意識や共有意識のに目覚めることは、内なる、真なる自分、真我が顕現することであり、神である魂の働きなのです。ここに肉体はその影響を受け、細胞の歪みは正され、生命が活発になるのです。生理は関与しません。


「道の道とすべきは、常の道に非ず、名の名とすべきは常の名に非ず、無名は天地の始め、有名は万物の母、故に、常に無欲にしてもってその妙を見、常に有欲にして、以ってその窔を見る。この二者は同じく出て、名を異にする。同じくこれを玄と謂い、玄の玄、これ衆妙のもんなり。」

老子の道徳経は、多くがその根源に遡って語っており、相対的な次元には陥らないのであります。

「大道は無為にして、自然に任せる。そこでどうして特別なる秘伝等その必要があろうか。もし各部位に分けて説明すれば、何千何万となるが、一たび執着すればその妙用を失うのである。
道は先天に本づき、修は自然に属する。自然の修をもって先天の道を悟るのである。先天の法に随って輪(めぐ)り、以って後天の気に合すれば、気は貫通して滞ることはないのである。それなのに、どうして特殊な秘伝など用いる必要があろうか。たとえ、法があると思えば即ちその法に迷わされ、また秘伝があると思えば即ちその秘伝によって惑わされるのである。」


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コメント (5)
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