玄徳道

道を語るブログです。

伊勢白山道

2015-01-04 18:55:48 | コメント道


一応、伊勢白山道とブログの引用は一切不可と書かれていましたので、コメント欄にて、許可を申請しました。引用不可であればアップしてくださいと。悪人鬼雷のアップはあり得ないので、許可はOKのようですね。


私が伊勢白山道と出会ったのは、五年前です。私は坐中において、大好きな住吉大神が様々な神々が、自己の中に在る事を感じました。人は神を外に求めます。しかし、実は自己の中に内在すると覚神(確信)したのです。

そんなときに本屋で「内在神への道」を見つけました。その当時は自己の中に神が在ると考える人が他におられると、嬉しかったのです。しかし、本はすぐに買いませんでした。立ち読みです。ここで先祖三本供養を知りました。当時、先祖供養の必要性を感じていた私には、最強の祝詞の言葉と共に印象が残りました。

その当時の私は内なる神を覚神しましたが、仕事面ではかなり悩んでいました。仕事での伸び悩みと人間関係です。

しばらくしてから本屋に行き、内在神への道を購入しました。

お金のかからない先祖供養は即座に実行しました。道院でも、「香りは信仰の使者」と言い、神霊に通じる道理があるのです。もちろん線香もしかり。故に、伊勢白山道から離れた現在も、私は三本供養を致します。しかし、伊勢白山道お得意の最強の祝詞は唱えませんよ。

丁度、その時分、家ではパソコンを購入。私は伊勢白山道コメント欄への参加を決めました。

その当時は伊勢白山道リーマン氏をなんでも見通せる覚者として信頼しておりました。

しかし、コメント欄で接するリーマン氏は、私の様な異端者は苦手の様でありました。自分のブログに追従する以上は、親切ですが、少しでも、異論をあげると、冷たい感じがします。最初のころ、リーマン氏のブログの思想に、それは間違っていると、指摘したところ、鬼雷のハンドルネームではアップしてくれなくなりました。ちなみに私は違う名前で投稿したところ、アップしてくださいます。「全てが観えていないのだな」と思いながら謝りましたら、許してくださり、鬼雷の名でアップしてくださいました。

当時はリーマン氏への疑心がありましたが、コメント欄の伊勢白山道登山者には、善い方がたくさんおり、私を応援して下さる方もおられたのと投稿してアップされる事への快感と依存心があったのです。リーンマン氏に嫌悪感を抱きつつも、毎日のように投稿しておりました。決別はリーマン氏の私への坐についての介入。老祖を外宮の北極の神と言われていたが、魔界の腐った爺さんと書かれたことであります。

私も昔の事は忘れていることもあり、今、ルーシェの検索で見たら、唖然。

「私の過去のコメントが一部削除されている」ということです。コメントは消さないという事でしたが。まあ、どうでもよいのですが。


さて、リーマン氏は、若いころに大阪の宗教団体、「友○グループ 女○の海」龍宮の乙姫こと、故 藤○妃○子さんに師事されたようです。ブログにおける教主達との付き合いは彼女を介してでしょう。鎮魂帰心編に書かれ、彼の魂を天照大神と審神された霊覚者は、丹波の神人、○長谷○聖さんです。リーマン氏に会った霊能力者は、殆ど倒れたと言われていますが、私が○聖さんにお会いした時は元気でしたね。

リーマン氏は全ての有料の霊能力者を地獄に落すと言われています。自分に会った霊能力者は倒れていると言われております。この言動から考えると、「自己虚勢」をはられる傾向があります。コメント欄では、自分の都合に良いように人のコメントを勝手に削り自己の正当性を書き込み、主張します。これから、考えると、自分のみが正しいと思い込む、妄想的自己顕示欲が強い方であるようです。

虚勢も自己顕示欲も誰でも持っている欠点でもあります。自己を肥大化し、虚勢を顕わし、尊大になる。自ら誇ることは病気であり、病気は治すことが出来ます。それは日々、己を省みることです。

コメント欄での信者たちの依存度もリーマン氏が望むものであれば、それは、大きく、伊勢白山道から外れます。私は、昔リーマン氏に、「伊勢白山道はリーマンさんの私物では無いですよ、神の、人の為のものですよ。」と書いたことがありますが、やはり、アップされませんでした。

伊勢白山道は自分道。各自が内在神と共に自立する道なのです。

伊勢白山道は民草の奇跡なのです。伊勢の神、白山の神、日本におられる神霊を支持した、人々の軌跡。そして、「感謝。」

「立ち挙げたのは伊勢白山道リーマンを名乗るもの。」しかし、これは、民草、庶民の総意と働きの恩恵。

本家と称される、伊勢白山道を名乗る者のブログ。ここに、民草の登山する者の、意志を無駄にしているとすれば、「伊勢白山道を名乗る者」の私欲あり。たとえ、伊勢と白山の名が広まろうとも、依存と縛りある教義が生まれているのであれば、伊勢の神も、白山の神の守護は無し。何故ならば、神に名誉無く、信仰無く、自存あるのみ。人の考えを神に押し付けるは不敬なり。


伊勢白山道を名乗る者よ。汝がある場所は、信者への依存なり。信者の依存の狭間で、生きる、妄想し、自己満足するただの人。

最早、伊勢の神、白山の神にへつらおうが、そこに神の感化無し。5%運動に神は動かれませんでした。

リーマン氏よ、汝の功績もあるが、大部分は、無垢なる民草の、伊勢の神、白山の神への純粋な奇跡。

自分を崇めるもののみを相手にし、自分を崇める者のみを信頼するのは自愛。己を愛する者に神を取り次ぐは、不可なり。

伊勢白山道を名乗る者よ、隠蔽とは、愛欲。自己の名誉を愛する、魔欲。そこに、神は無く、教義は偽りとなる。

リーマン氏よ、これを悟り、これを覚え、是を知れ。己を愛する者は、眩ます。まあ、無理ですがね。

以上が私と伊勢白山道の大まかな経過でございます。伊勢白山道 ルーシェの検索で「鬼雷」で検索すれば抜けているコメもありますが、未熟な私の、コメントを検索することが出来ます。


2015-1-4 一部加筆致しました。



コメント (36)
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