世に神示がはびこるなり。
多くの経典があり、盲信者は、その文字を信じるなり。
神示とは預言の書では、無い事。神示を盲信せず学ぶ、これを道と呼ぶ。
道とは、人の可能性であり、神もまた、人の自神(自身)の道を応援されておられので御座います。
神の示すものはオサトシであります。
オサトシは、人への応援でもあります。
神の仕組みがあり、その中で神が自らの意向なる世界を創る。そんな事は皆無で御座います。
神は人を奴隷とすることは、皆無なり。
そして、真なる主神とは、無限絶対無始無終。そこに人の思考は存在しないし、介在出来ない。
また、人間が自然なる循環を、自然の働きを動かそうとしても、無駄な努力と無駄な働きの如きように(一部に言霊による変化あり。)、自然を人の意識でどうこう出来ません。
神が人の願えを叶える存在と、思考する段階で、人は人の領域におられます。
されど今の人は、日月神示を盲信している人がおられる。
日本神界は、八百万の神々がおられる。
当然に、神の調和なる神言霊に間違いは無し。
されど、岡本天明は、みずから、その過ちを認めた。善き哉。
大本の裏神業、伊勢の三保山には、辻天水神使、武智時三郎老翁師、白山義高老翁がおられ、出口王仁三郎聖示の指示と聖師の亡きあとは、皆が神人合一し、天地の経綸なる神と意志を覚悟し、神の働きとなり、助けとなっておりました。
そんなある日、武智時三郎師が、辻天水神使に曰く、「実はワシを頼って、みのり言う、娘が
駆け落ちしたみたいで、今は岐阜におるが。」
武智時三郎師の言葉は、歯切れが悪かった。
「その旦那というのが、一応おるが、一人ならともかく、夫婦で知り合いの所に居候しておりますのや。いつまでもそうさせておくと言う訳にいかんし、弟子でもあるから、ここに連れて来ようと思っておるんや。」
辻天水は、「弟子というと誰ですか。」
「岡本天明と言って、神様のお筆先いうのを降ろす男や。」
「ああ、日月神示とか言う神示を岐阜で「ヒカリ教会」とかいう団体を発足させている人でしょう。」
「そうや、夫婦で呼ぼうと思っておるのだが。」
「左様ですか。神様のご用する人なら確かでしょう。それもよろしい事かと、思います。ぜひ会わせてください。」
なんやかんやで、天明は天水の元に三尾寄せた。
ある時、天水は、「武地さん。私は日月神示を二回繰り返し読んで見たが、おかしいな。神様がこんな事を云われる筈がない。」
天水の疑問に、呼応するように、どこの箇所かと尋ね返すと、ここと、ここと。返答した天水の発言に、武智もしばらく、腕を組み、ながら頷いた。
武智も「わしもその様におもう。」
武智は早速天明を呼び寄せ、事の真相を尋ねた。
「おまえ、これ、ほんまに、神様が降ろしたんか。」
師匠の気迫ある声に押される、天明は、平頭した。
「すんません。わしの意志だったようです。」武智は「そうか。」と言っただけで、次の言葉が無かった。
「なんで、このようなものを書いたんや。自分が偉くなったからか。」
「申しわけありません。」
ただ、ひたすら、詫びる天明の姿に天水は天明の生き方が何であるかを感じとっていた。
鬼雷述べる。天水師との違和くが此処に始まったが、それでも、我が入ったとされるが天明師もまた、偉大で素直で正直である。天明師の生きた時、後の三典さんの生涯。とても貧乏であったことも一因があります。武士は喰わなど高楊枝などの、精神は、なかなか難しいのです。
そして、多くの愚者が神示が降りたと騒ぎ、狂信し、真なる信仰を誤ってしまい、そして持ち上げられる人もまた、驕り高ぶり、道を誤るのであります。
日月神示を盲信するお方には、ここの文章はどうでも良い、曲がっている神の言葉であるとされるであろうが、神に仕える人間には、半面教師でもあり、自らを省みる天明師に、共感も得よう。
何せ、人は、正しく生きて誤って、悪ともなり、また、反省して、自己をとり戻し、死ぬ瞬間まで、修行だからであります。
鬼も邪も、聖も神も入るが故に日月神示も申されるのかも。
日月の神は、善悪を兼ねるなり。
私個人的には、神示に意義を見出せない。私の道は、坐であるが故に。
坐とは、孤独との対話でもある。
さて、何度も核が、なんせ神の示しとは、オサトシであるのみ。
そこに預言を入れるは、邪道である。
確かに、大本開祖のお筆先、長澤雄楯老師と上田喜三郎の鎮魂帰神法における実習でもその様に預言されておられるが、出口なお刀自は、その示しが御発声であり、上田師もまた、鎮魂法帰神術の修行時代でもあった。未熟の未遂の発露なり。
日月神示。
天言鏡。
龍宮神示。
大本神諭。
霊界物語。
日の出神諭。
伊都能売神諭。。。。。。。
これを7つの経と呼ぶかは知らないけれど、人の助けとなる。
三六九神示は、人の埋もれた身魂を開くにある。ゆえに、八をもって示される。
三六九とは、流れ。五六七は今の時代なり。
そして、時代は八九十の時代へと移り変わる。
はくとは、白頭でもあり、白山菊理姫之大神が主体となられる時代なり。
五六七は、神素戔嗚尊、吾が師、至聖先天老祖や国祖、国常立大神の懸命の汗血の結晶の今の時代。
なにぬねの。名のかみ。
はひふへほ。派のかみ。
まみまめも。間のかみ。
らりるれろ。羅のかみ。
そして、止まる、わん。和と、ん。
螺旋なる富士とナルトの渦の仕組みもあり。
東北の闇夜に日月が登りて、道示す。なんせ、光は、東方より。
四国は死国とも、呼ばれるが、死とは皆が持つ平等を表すなり。故に四国とは四方平らかなる国を示す。差別なき、世界あり。
令和とは、霊和でもあるが、和の十音である。
イエスキリストの十字架とは罪を背負っている示しではない。
後天と先天。物と霊。悪と善を繋ぐ印。
霊体一致の世界である象徴。
此処に十和田湖の神秘がある。故にキリストの平等なる墓が存在する。
ただし、現実には、戦争あり、人種差別により殺戮あり。富める者は弱者を虐げ搾取する。
愛と誠ある人もあり、弥勒の心を悟れる人々も増えております。
この殺戮と破壊と輪廻を止めるのは、愛と誠の九九〇(心)あるのみであると考えます。
ああ、世界に平穏と安寧がありますように。