さて、私、鬼雷は、折り鶴は、小学生の時にしたのみ。
特に興味も無し。
今、世の中では、折り鶴をウクライナに送ろうととしたら、役に立たない。頭が悪いと。人はそう言う評価を与える。
然り。されど、道では無い。
道とは、自然の大道なり。大道とは愛道なり。
お互いを思いやる気持ちこそが道の真価である。
私は織り鶴の意を解釈しない。というか、出来ない。した事が無いから。
それでも、想像する。
折り鶴とは、夫婦と過程に似ていると。
お互いに役に立たない事を為すことがある。
なんせ、夫婦は赤の他人。
その中で、通じ合うのは、お互いへの愛あるのみ。
私で言えば、阪神タイガースをこよなく愛する嫁の好みは理解出来ないが、それもまた、良し。
たかが、紙で鶴を織る。
されど、古神道には、太古真法による神折符があり、和紙を一定の玄則によって折る事により神界の符則と合気し、神々の働きの為す働きがある事を示している。
たかが、折り鶴、されど折り鶴。
無駄無駄無駄のような行為が実に大地に安寧を与えている、御徳が確かにあるのでございます。
そして、人の世の誠の行いに、頭の悪い事も無く、無駄な事もないのである。
さらに、無為の中にこそ、神の感化は備わっているのでございます。