咒とは呪であり、まじないの意であります。ハリーポッターの世界では呪文を唱えることにより魔法を使い、空を飛んだり、物を動かしたり、変身したり、攻撃したりします。これはあくまでもファンタジーの物語ですが。
太古の時代、人々が言語を使わずにテレパシーに近い感覚で意志の疎通をしていた時代、咒はありませんでした。ゆえに発声器官が無い草木と意志の疎通を通わせることが可能でした。
言語の発達は人類の進化でもあります。言葉による会話を人類が出来るようになり、物質と精神世界に大いなる進歩を生み出したのです。しかし、それによりテレパシーなどの霊性等は失われていったようです。
人々が呪文を唱えだしたのは人類の文明の発達と共にあります。ある者は権力を欲し、政敵を呪うためにまじないをし、ある者は病気を癒すために、呪文を唱え、また神との意志を通わせようと唱える。咒とは言霊の機能であり、宇宙の働きをその言語に見出し、その効能を引き出しました。
古代インドでは、人々が生命を営むに苛烈であり、土地には瘴気が多く劣悪な環境を克服するために多くの「咒」が生まれ、発達してきました。咒とは言語であるが、人語ではありません。咒とは自然界の言語であり、自然界の言語であると信じ、自然界に内在する神秘の働きを引きだすための媒体であったのです。咒は霊界ともつながります。霊界は元々、存在しなかったのですが人類の想念の発達により霊界は肥大していきました。咒の霊界も相応の関係であり、意志が強ければ強いほど感応があるのです。
孔雀明王の咒が生まれた経緯を見れば、人は孔雀の神秘さに驚嘆したからです。人間は毒を食べたら死にます。しかし、悪食の「孔雀」は毒蛇、毒蜘蛛を食らっても、咀嚼し解毒する。この神秘さを古代のインド人は、孔雀の鳴き声を咒に取り入れ、毒に当たったのであれば、この孔雀の咒を唱え、内臓までも孔雀に変化させ、その効能により解毒し、その験を表しました。また、それに仏性の要素が加わり、解脱を妨げる毒である三毒、「貪る、怒る、愚かしい」という毒も咀嚼し解毒してしまう思想にまで昇華していきました。
この咒を真言とし、仏母大孔雀明王という法身の存在にまで高め、宇宙の原理を明らかにされたのが弘法大師空海であります。インドで発生した呪術(雑密)が遠く離れた、中国で熟成され日本において、宇宙意識である法身、大日如来を明らかにされ、即身成仏の道「密教」が確立されたのは驚天動地としか言いようがありません。現在でも空海の密教、孔雀経法は鎮護国家の大法であるのです。手に印を結び、口で真言を唱え、心に、諸天諸仏を感じて一体となる、仏そのものに成る。この三密こそが真言の真髄であるようです。
しかし仏教の開祖釈尊は咒を否定されたようです。ただし悪咒(人を呪う)は完全に否定されましたが、方便では善呪(人を癒す)は時折、容認されたようです。
咒を真言となし、誠とする。誠とは言葉が成る意である。
咒とは単なる願望成就の代物ではありません。私利私欲で唱えれば、神、宇宙に対して不敬に当たり、その因果は自己に還ります。あくまでも宇宙の言語であり、自然の言語であります。宇宙にある、働きを小宇宙である人がその働きをなすのです。ゆえに心に誠が無ければ、宇宙の調和を乱すだけになるのです。誠は天の道なり、これを「神」にするが人の道なりです。
心中に誠あれば、「誠であれば能(よ)く感じ、感じれば能く運(めぐ)り、運れば能く通じ、通じれば能く化すのである。」
出口日出麿さんが愛用された咒は「はるち うむち つづち」であります。この言霊的意義は生命の躍動に有るでしょう。なぜならば、血液の流れ、生命の流れに繋がるからです。余談ですが、笹目老人が神仙から受け継がれた、太陽の精気、月の精気を食む秘法にもこの秘言が憶測ですが使われているようです。日月とは明。自らを宇宙を明らかにするからです。
日本神道には十言の神咒があります「あまてらすおほみかみ」です。私も良く唱えます。それよりも「しせいせんてんろうそ(至聖先天老祖)」と無意識に無想で唱えることが多いですね。昔、伊勢白山道リーマン氏はこの言葉は他の宗教団体が良く使うので唱えると穢れていると言われるので、リーマン氏が進めるアマテラスオホミカミと言う咒もありとあらゆる、宗教団体が使っていますがどうなのですかと尋ねたら、返答はありませんでしたね。(笑)
ある宗教団体の著書では道院の咒が神霊の許しを得ずに書かれていますが、唱える側に誠が無ければ、主神の霊を穢すことになる事を悟らねばなりません。また、道院の「神化咒」をたかが九頭龍神を動かし、願望成就、病気治しの秘言として使われていますが、お笑い草です。この神化咒は全ての八百萬の金神を総動員する秘法です。心中に誠実を保ち平素に功行ある者が唱え、また唱えられる側も功行の広大なるを認められた者のみが初めて誦されるのです。ゆめゆめ、願望成就のために使われること無かれ。
道院の咒は紅卍字会修方にのみ閲覧が許されておりませんのでここで発表することができないのをお許しください。
元来、言葉は神である。ゆえに、真の予言は聖人のみが発することが可能となる。誠とは言葉が成る意であるからである。近代、預言者として、名高い出口王仁三郎聖師は聖人であったのかもしれない。しかし、神界 龍神界からの憑依による提言も多くあり、聖師の霊界物語は36通りの読み方があるといわれています。近日、大本を紐解こうとし、自分の解釈をこれを予言とするのは予言ではありません。学問的に解釈しているだけのことです。聖人の予言は断言であり無意識であり、短く、必ず起こりうるものです。それは大宇宙の顕現意識が小宇宙たる人にストレートに働くからです。
空海は、予言こそされませんでしたが、インドに発生した咒を自己に受け入れ、受け入れた咒を自己の小宇宙から大宇宙にまで、昇華させた偉大な聖人であります。ゆえに「真言、まこと(誠)」となるのです。
咒は真言であり誠。この真髄は他力によるものではありません。自分自身の神の発露が顕現するということであります。孔雀明王咒を唱えれば、内在神が法身の孔雀明王成り、宇宙である大日如来へと感合するのです。不動明王もしかり、地蔵菩薩も観世音菩薩もしかりです。
咒を神人合一、即身成仏まで高めた解釈をされたのは弘法大師 空海です。しかし、体系が完成された密教は空海以後、高野山には傑人が排出された様子はありません。先人の教えをありがたく学ぶ。そして模倣だけでは空海を超えることは永遠にできません。あくまでも学び、自己の宇宙を体現することが重要であります。いずれにしろ、咒も祝詞も自己の宇宙を爆発させるがごとく、真心こめて真剣に無欲に唱えるべきであると考えるのです。
「神々の神言かしこみ言霊の その活用は歌となりけり。 言霊の天照る国の尊さは 神の御声を居ながらにして聞く。」
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太古の時代、人々が言語を使わずにテレパシーに近い感覚で意志の疎通をしていた時代、咒はありませんでした。ゆえに発声器官が無い草木と意志の疎通を通わせることが可能でした。
言語の発達は人類の進化でもあります。言葉による会話を人類が出来るようになり、物質と精神世界に大いなる進歩を生み出したのです。しかし、それによりテレパシーなどの霊性等は失われていったようです。
人々が呪文を唱えだしたのは人類の文明の発達と共にあります。ある者は権力を欲し、政敵を呪うためにまじないをし、ある者は病気を癒すために、呪文を唱え、また神との意志を通わせようと唱える。咒とは言霊の機能であり、宇宙の働きをその言語に見出し、その効能を引き出しました。
古代インドでは、人々が生命を営むに苛烈であり、土地には瘴気が多く劣悪な環境を克服するために多くの「咒」が生まれ、発達してきました。咒とは言語であるが、人語ではありません。咒とは自然界の言語であり、自然界の言語であると信じ、自然界に内在する神秘の働きを引きだすための媒体であったのです。咒は霊界ともつながります。霊界は元々、存在しなかったのですが人類の想念の発達により霊界は肥大していきました。咒の霊界も相応の関係であり、意志が強ければ強いほど感応があるのです。
孔雀明王の咒が生まれた経緯を見れば、人は孔雀の神秘さに驚嘆したからです。人間は毒を食べたら死にます。しかし、悪食の「孔雀」は毒蛇、毒蜘蛛を食らっても、咀嚼し解毒する。この神秘さを古代のインド人は、孔雀の鳴き声を咒に取り入れ、毒に当たったのであれば、この孔雀の咒を唱え、内臓までも孔雀に変化させ、その効能により解毒し、その験を表しました。また、それに仏性の要素が加わり、解脱を妨げる毒である三毒、「貪る、怒る、愚かしい」という毒も咀嚼し解毒してしまう思想にまで昇華していきました。
この咒を真言とし、仏母大孔雀明王という法身の存在にまで高め、宇宙の原理を明らかにされたのが弘法大師空海であります。インドで発生した呪術(雑密)が遠く離れた、中国で熟成され日本において、宇宙意識である法身、大日如来を明らかにされ、即身成仏の道「密教」が確立されたのは驚天動地としか言いようがありません。現在でも空海の密教、孔雀経法は鎮護国家の大法であるのです。手に印を結び、口で真言を唱え、心に、諸天諸仏を感じて一体となる、仏そのものに成る。この三密こそが真言の真髄であるようです。
しかし仏教の開祖釈尊は咒を否定されたようです。ただし悪咒(人を呪う)は完全に否定されましたが、方便では善呪(人を癒す)は時折、容認されたようです。
咒を真言となし、誠とする。誠とは言葉が成る意である。
咒とは単なる願望成就の代物ではありません。私利私欲で唱えれば、神、宇宙に対して不敬に当たり、その因果は自己に還ります。あくまでも宇宙の言語であり、自然の言語であります。宇宙にある、働きを小宇宙である人がその働きをなすのです。ゆえに心に誠が無ければ、宇宙の調和を乱すだけになるのです。誠は天の道なり、これを「神」にするが人の道なりです。
心中に誠あれば、「誠であれば能(よ)く感じ、感じれば能く運(めぐ)り、運れば能く通じ、通じれば能く化すのである。」
出口日出麿さんが愛用された咒は「はるち うむち つづち」であります。この言霊的意義は生命の躍動に有るでしょう。なぜならば、血液の流れ、生命の流れに繋がるからです。余談ですが、笹目老人が神仙から受け継がれた、太陽の精気、月の精気を食む秘法にもこの秘言が憶測ですが使われているようです。日月とは明。自らを宇宙を明らかにするからです。
日本神道には十言の神咒があります「あまてらすおほみかみ」です。私も良く唱えます。それよりも「しせいせんてんろうそ(至聖先天老祖)」と無意識に無想で唱えることが多いですね。昔、伊勢白山道リーマン氏はこの言葉は他の宗教団体が良く使うので唱えると穢れていると言われるので、リーマン氏が進めるアマテラスオホミカミと言う咒もありとあらゆる、宗教団体が使っていますがどうなのですかと尋ねたら、返答はありませんでしたね。(笑)
ある宗教団体の著書では道院の咒が神霊の許しを得ずに書かれていますが、唱える側に誠が無ければ、主神の霊を穢すことになる事を悟らねばなりません。また、道院の「神化咒」をたかが九頭龍神を動かし、願望成就、病気治しの秘言として使われていますが、お笑い草です。この神化咒は全ての八百萬の金神を総動員する秘法です。心中に誠実を保ち平素に功行ある者が唱え、また唱えられる側も功行の広大なるを認められた者のみが初めて誦されるのです。ゆめゆめ、願望成就のために使われること無かれ。
道院の咒は紅卍字会修方にのみ閲覧が許されておりませんのでここで発表することができないのをお許しください。
元来、言葉は神である。ゆえに、真の予言は聖人のみが発することが可能となる。誠とは言葉が成る意であるからである。近代、預言者として、名高い出口王仁三郎聖師は聖人であったのかもしれない。しかし、神界 龍神界からの憑依による提言も多くあり、聖師の霊界物語は36通りの読み方があるといわれています。近日、大本を紐解こうとし、自分の解釈をこれを予言とするのは予言ではありません。学問的に解釈しているだけのことです。聖人の予言は断言であり無意識であり、短く、必ず起こりうるものです。それは大宇宙の顕現意識が小宇宙たる人にストレートに働くからです。
空海は、予言こそされませんでしたが、インドに発生した咒を自己に受け入れ、受け入れた咒を自己の小宇宙から大宇宙にまで、昇華させた偉大な聖人であります。ゆえに「真言、まこと(誠)」となるのです。
咒は真言であり誠。この真髄は他力によるものではありません。自分自身の神の発露が顕現するということであります。孔雀明王咒を唱えれば、内在神が法身の孔雀明王成り、宇宙である大日如来へと感合するのです。不動明王もしかり、地蔵菩薩も観世音菩薩もしかりです。
咒を神人合一、即身成仏まで高めた解釈をされたのは弘法大師 空海です。しかし、体系が完成された密教は空海以後、高野山には傑人が排出された様子はありません。先人の教えをありがたく学ぶ。そして模倣だけでは空海を超えることは永遠にできません。あくまでも学び、自己の宇宙を体現することが重要であります。いずれにしろ、咒も祝詞も自己の宇宙を爆発させるがごとく、真心こめて真剣に無欲に唱えるべきであると考えるのです。
「神々の神言かしこみ言霊の その活用は歌となりけり。 言霊の天照る国の尊さは 神の御声を居ながらにして聞く。」
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