玄徳道

道を語るブログです。

尚真人訓(南極老人を仲介され、天帝老祖を現化された、礎の神仙)

2022-06-30 20:45:00 | 道院
人生は、身を治めることが根本である。

身を修めるには、心を正す事が肝要である。

心を正すには、意を誠にすることが先決である。

心とは身を主(つかさど)るところであり、意とは、心の起こるところである。

いわゆる、「その意を誠にするとは、自らを欺くことなきなり、悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如し」(大學)と。(注 好色を好むとは、欲心の代名詞であり、ここでわざわざ大学で記されている意は、大善を好むが如しの意であります。多くの人は真に好色を好まれておりますが、その道は、上辺だけの世界であり、実相世界の美意識とは異なります。)

誠意正心。

これは、本心より出た自然の発露であって、外面をいつわり飾っている状態ではない。

もし、意を誠にすることによって自らの、慊(快くすること)を求めれば、心は正しく無いことはなく、善く意を誠にすることを、推して他人に及ぼせば、感じて通じないものはない。

したがって中に誠あれば、外に形(あら)われる。

そこで、君子は必ず、その独りを慎むのである。

蓋し、意の起きるところには善があり、不善がある。

これは人の知らないところで、自分独りだけが知っている境地である。

故に意を誠にするか否かは、まさにこれ善と悪、昇と沈のキーポイントであり、又聖人と狂人、人間と禽獣の由って分かれるところで、全ては自分の心意によって決定する。

そこで篤く修める者は、天理を存して、人欲を去り、善を為して悪を去るだけである。

もし、一念の発するところが悪を悪(にく)む、ことにあれば、即ち誠誠実実に、善を好んで行い、一念の発するところが悪を悪むことにあれば、即ち誠々実々に悪を悪むことを行い、この心意に基づいて善を為すには、当面の事柄について、全力でこれを為し、この心意にもとづいて悪を去るには、日常生活について、旧い(悪い習慣)を洗い流して、自ら新しくなることである。

悪を去ればもとより、善に遷ることが出来、善を為せば自ら悪に遠ざかることが出来、皆、その不正を正して以て正に帰し、徹頭追尾、内より外に達し、自らの修を純粋に全うすることが出来るのである。

明らかに善と分かっていながら、誠意を以って実行しないのは、善を好むところの初めの衷(こころ)に違うことになり、既に悪と分かっていながら、誠意を以てこれを阻止しないのは、いぜん、自らその悪を悪むところの本良(本来の良心)を昧(くら)ますことになる。

少しでも違うところが有って定まらなければ、たとへ、最初の意念は良くても、それが、一念の心変わりによっておかしくなるのは、多くが識神(知識による偏向)、客魄(客は欲心であり、魄はそれを喜び従う汚い心)の為に奪われて、自らの身心の主宰を失うからである。

故に王陽明は良知を直指して、これを致すところの功を貴んだ。

いわゆる良知を致すとは、また、その誠意を推し極めて、これを実修に証するのであり、真に能(よ)く、その良知を欺かないもの、その意を誠にすれば、心は正しくないものはないのである。

意が誠で心が正しく、身が修まって道が立ち、俗塵によって乱され、情欲によってひかれることなく、世俗の悪習に染まり、時勢に流されることがなければ、吾が心の虚明霊覚は遇うところの縁にしたがい、感ずることろに応じるので、それは衷(うち)より自らの発するものであり、これを本意(本来の意)というのである。

その意を誠にして以て親を愛し兄を敬えば、自らの孝悌の道に合し、その意を誠にして、以て君に仕え友に交われば、自らの忠信の道に合し、その意を誠にして人に対し、世に処すれば、礼儀の道となる。

その意を誠にして世のため、人のためにすれば、化度の道となる。

吾が心の良知に基づき、虚中の真意を充せば、自ら理にしたがって分を盃くし、素位(中庸に「君子は素位にして行い、其の外を願わず」とあり、君子はそのおかれている境遇、位に全力を尽くし、勤めるべき事を勤め、外にその報いや期待を考えないこと。)にして行う事ができる。

その事に因ってその事に応じ、縁にしたがって縁を悟り、常に処し変に処し、平常に臨機応変にも対応できる。

この故に純全の修功は、自らの体用に徹し、真実の徳行は形式にこだわらず、誠孚の感応は、その地域だけに限らないのである。

ただ、至誠なるが故に至純であり、ただ至純なるが故に至真であり、ただ至真なるが、故に至善である。

修子はこれを明らかにして、己れ自身にとって最も切実なる身心に自ら問うて、意念の初めに起こるところ、即ち初一念から体認黙省(黙して省みる)すべきである。

隠れて幽(奥深い静寂)なるところの人心と道心のきざしが、顕れては日用の人倫の常となり、さらに起居進退辞受取興(辞退と受諾、取ることと与えること)の至順逆窮通より、とっさの間や緊急存亡の時に至るまで、誠意正心の修練に努め、表裏始終を貫徹させて、正宰は常に直く、天地に愧じることなく、天地にありて肖子(立派な子)となり、宇宙にありて完人(完全無欠な人)となることが出来る。

諸修は努めよ。





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墨子道。

2022-06-28 20:33:00 | 私的考察


今の人は、物質的な地位や名誉や、お金持ち、それが本当の幸せの種であり、また、それに史上の価値を置く。

故に、人は、真なる実相の世界を悟れない。見れない。聞こえない。解らない。

故に、老子は述べる。

「下士、道を聞けば大いにこれを笑う。」

道は神の本質であり、天の命であり、我が真髄であります。

ははは。今の人は、道など、学んでいないし、古臭いし、されど、「古の 法は古きに あらずして 己を示す 礎とこそ知れ。」なんてね。

そして、道を知らない人は、地球上の全ての自然の働きは、天命から来る事を悟らない。宇宙の天命、地球の天命、月の天命ありて、主宰を為されておられるのでございます。

人が道を知らない、罪科は、劫をつくるにあり、人が人を殺し、動物、昆虫を殺す。

その行いは、天地にまで、害を及ぼして、自然の気の陰陽は、その調和を失い、雨が降れば、豪雨となり、晴れれば熱地獄となり、自然は、程よい調和を失う原因となる。

未知ゆえに、道。

太極であり、至奥。

至奥であるが故に、その本質は、愛なり。

かつて、イエス キリストが、「汝の隣人を愛せよ。」と。

これは、隣人から、全てを愛せよと繋がる。

今の人は、道を知らず悟れず、道が神からの愛であることを悟れる人は少ないので御座います。

そして、かつて、役行者なる小角に似たる魂。その前世であるのかないのか。

墨翟なる人物がおられる。

尊称は墨子。

此処に、吾が師老祖は、太乙北極真経においてて、釈迦(仏祖釈尊)と墨翟(墨教の行事者、墨子)を老祖の本質に近く、同様の働きがあるとされておられる。

墨子は紀元前四百七十年から三百九十年に活躍されたようであります。罪人が墨を打たれるから、罪人説や、墨大工の職人説があります。

東周英雄伝と言う漫画では、実に私と同じ、左官屋さんで描かれておられます。えへ。


役行者と墨子にある共通の点は、貴族や王族、天皇族がある最中、貴賓より、民草を愛された。

墨子を導いた神は、何神であろうか。

役行者を導いた神は、何神であろうか。

実に、国祖、国常立尊之大神。またの名を至聖先天老祖。

国祖も、老祖も同じ意味合い。

役行者は、日本における貴賎による差別を無くす為に、民草が安寧なる幸せを得られる世界を創る為に、自然神による天啓を受けて、活躍、活動された。

神はその至難なる道の助けに、あらゆる毒や呪いを無力とする、仏母孔雀明王咒を授けられた。

役小角による真心なる行いの、この活動を嚼む素戔嗚の働きと言う。

如何なる人、全てを受け入れる徳とならん。

墨子は、血族を愛すのは、当たり前だのクラッカーとする、儒学にたてつき、兼愛(家族だけを愛さず、全てを愛そう)を説かれた。。。これは、十字架の線、縦横の神の大愛の真奥を示された、イエスキリストの言葉と同様でございます。

「汝の敵を愛せよ。」

そして、非攻。

愛とは、仁。仁とは人が二人と書く。人が二人おれば、お互いに思いやりを持とうとする愛。これが仁であり、仁とは愛なり。

孔子が説いた仁も、墨子の説いた博愛もまた、思いやりの世界感でございます。

墨子は、思いやりなる、その兼愛によりて、戦争の悲惨さを否定し、国々を有説し、人の国の長に王に、戦争の愚かさ、国力の疲弊、民草の悲惨をとなえ、非攻を唱えました。

故に、実際の侵略戦争には、実利として、弟子を派遣して、専守防衛をされた。

また、小国に侵略の怖れがあれば、弟子を赴かせ、未然の防衛をさせた。

墨子の教えには、「明鬼」があり、善悪に応じて、人々に賞罰を与える、鬼神の存在を明らかにして、争いや不純や悪い行いをすれば、閻魔の裁きを受けることを明らかにされた。

この当時、儒教の孔子は「鬼神は語らず」とし、神に対して明言を避けられたが、後の墨子は、鬼神なる働きを真実とし、人の死後、閻魔の裁きがあると示された。

墨子は、先祖や家族、血族、眷族を敬う行いよりも、民草を愛された。此処に、儒教による思想なる中華において、史家の誤解を産み、嫌われた、変人であったようだ。

吾が師、至聖先天老祖は、多くの聖人がおられる中で、釈迦や墨翟を一流とされた。

イエスキリストは、神の愛は人の幸せであると説いた。

墨子は、鬼神の存在とは、愛であり、その働きも無償の愛である事を示された。故に、神の働きと同様に、人への無償の愛ある行動を行う事を説いた。

故に、墨子の克己復礼。それは、己を愛することすら忘れる精進の誠息(誠心が一度発したら、それが、天命と同化し、真心の発動が休みなく行われておられる。)を述べ、自然なる神と同様の働きをされた。 

孔子も人の為に尽くされ、墨子も身分に関係無く、如何なる人を愛せよとされた。

博愛とは、無償の愛。損や得、見返りが無い、ただ、愛ゆえに活動し、愛する大和の世界なり。

さて、墨子とは、咬む素戔嗚尊であり、また、役行者も嚼む素戔嗚尊であるようで、人が人を殺した戦争、また、差別により、人が人を排斥する世界をナンクルナイサあと、何とかしたかった。

天知る地知る吾が知る。神素戔嗚の身魂は、全ての救い主とされる、天命を与えられ得ておられます。

つまるところ。

その志しを継ぐが、このブログを観る汝らである。是を知れ。なのかしらん。

己を愛する事は、良からぬ事の始まりなり。

自己愛を否定するも道に非ざるや。

ゆえに、己を愛すると同様に、他人を愛そう。

追記。

墨子を役小角の生まれ変わりと述べる者は、皆無であろう。

中国神仙界から、光は東方よりの日本神仙界へ至った。

しかし、その本質は何ら変わりも無い。彼等は、何時の世でも必ず、身分の低い存在に転じておられます。


(これは、邪悪な鬼雷の妄想妄言である事を記します。)

すみません。

神の道を歩む者は、その根本に、誠あり。

多くの人はスピチュアルや霊能者による言を信じ、自己の内奥におられる、天命を、内鳴る神を知らない。

即ち、自身の真なる神と出会えておられない。

信仰とは、ヒトのことばを信じる盲信ではありません。

信仰とは神交なり。

道を歩む者は、この、現代の色とりどりの美しさに酔わない。何故ならば、そこに本質が無いからでございます。

いずれにしても、もし、道を知りたいのであれば、上天のイエスキリストの聖書道、全てを救う釈尊の法華経道、孔子の仁愛なる中庸と大学、親を大切にする孝行道は、論語儒学に寄ります。

出口王仁三郎聖師の善言美詞をもって言向け和す、愛と誠の精神の発露である、霊界物語道。を読む事が、道を開かれます。

人が道を得るのは、何も宗教を学ぶ事ではありません。

ただ、誠心あるのみで御座います。


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令和四年六月 三六九神示。

2022-06-22 11:55:00 | 神示道
昭和六十年六月六日、大宇宙天照皇大御神を弥勒大神を奉祀(まつり)てより、三十八回 日の弥勒大祭を意(お)えたな。

昭和六十年三月八日、天地を結ぶ天橋立の磯清水(五十清水)の水を汲ませ修聖に天照皇大御神と墨書させて六六六の理の昭和六十年六月六日(六白乙丑年)、龍華館の神床に天照皇大御神の御軸を祀らせて最初の弥勒大祭に奉仕させたのであるぞ。

この天照皇大御神は伊勢の天照大御神では無く、大宇宙天照皇大御神であり、自ら耀く神、弥勒の大神であるぞ。

世界の型を見せる所、丹波綾部の大本教出口直刀自の筆先に現して、綾部神苑の本宮山頂に、大正十年七月立派な神殿を建て、天の弥勒の大神(天の三体の大神)を奉祀したが、その年十月、第一次大本業弾圧によりて破壊されたのであるぞよ。

是も先駆けの型でありたが、世の時節が到らなかった故であり、その天照弥勒の神を昭和六十年六月六日、龍華館に奉祀したのであり、それによりて世の元の真名井ヶ原の整備が始まる事となりたのであるぞ。

すでに天地和合神人和楽万物共存共生、天橋立を地に現す、三六九世開きの時節に到りておるのであり、それが為、三千年積もり積もった罪科、汚れ穢れの大浄化の時代となりておる今の世であるぞ。

さても現(九)の世は、三六九の数で成りており、三は天の三体の大神の氣が現れ、形ある世を造る始めの数であり、三次元とも申すのであるぞ。

六となりて形ある世は生まれ、六の数は万象崩壊、建設と破壊の用(はたら)きであり、それ故現(九)の世の始まり以来、建設と破壊の変化の繰り返しで今日に到りておるのであるぞよ。

九は九九理(菊理姫)の働きによって、総てが括り結ばれて完成の世に到るのであり、九は九ニ十九立(国常立)大神、即ち豊受大神の念願の実る世であるが、それは未だ先の事であり、これからも世界に建設破壊が繰り返されるのもやむえぬ事であるぞよ。

一日も早く神人、嬉し楽しの三六九の世の完成を神界も願いておるが、体を持つ人間の改心成らねば〇(霊)なる神の念願は九(現)の世に三(実)のらぬから様々の荒事を荒神をして現の世に現して人民の改心を迫るのであり、まずそれぞれの人民の心の中に清く明るく楽しき神人和楽の光を点ぜよと申すのであるぞよ。

これまでの世に多くの聖人、賢者が現れて、人類よ、利己主義(われよし)の心を改め、愛和す世を開けよと叫びて来たが、人民の自我や欲、利己主義の思凝りの岩戸が開けず、未だに陰謀策謀渦巻き、我が我がの争いは止まず荒れ狂う世界であるが、それが鳴門(ある)渦巻きの世であり、渦を巻きつつ様々の悪しき因縁が浄化され、起こり来る荒事をは、新事を生む道である事を忘れず。

この日の本の国に伝えてある言向け和(や)わす言霊の和の力こそ、世界を治める要であり、それを世界に示すのが日本の神命でもある事忘れてはならぬぞよ。

金力武力は一時のおさえであり、真の平和の世は来たらぬぞよ。

良くその事を肝に命じ日本も世界の真似事ばかりいたすので無く、神代からの東方の光、日の出の国日本の道をしっかりと学び、狂わぬ大和魂を磨かねばならぬぞよ。

世界は仲々願い通り善く成らぬが、世界を替える一歩は我が心の改めであり、それが一点の光となりて世界の闇を晴らすのであるぞ。

片寄った思いで世を破壊せんとする陰謀に迷わされてはならぬぞよ。

それぞれ、様々の悩み苦しみ多い人の世の中であるが、この事しかと、肝に命じておけよ。

世界は清く明るくする一歩は我が身である事を忘れてはならぬぞよ。

陰謀策謀で世を乱し人民を迷わせ金力武力で世界を自在にいたさんむとする赤き辰や赤き鬼その眷属の思凝霊等に迷わされる事無く、弱き者を助け世を善くする、する道に少しなりとも尽くす心を忘れてはならぬぞよ。

世界の立替立直しの四九三(しくみ)の始まりの丹波の国、丹後が要で丹波は表舞台と大本教を現し、但馬は後備へと大事な秘め事があるぞよ。

荒事渦巻く厳しき世であれど、それぞれの御魂の使命の果たしに誠尽くせよ。

その事が心の思凝の岩戸を開き、世の中を明るく楽しくする事となるぞよ。

さあ、見てござれよ、世界の大舞台大芝居あんな者がこんな者、こんな者があんな者と変化(へぐ)れる七変化の世の幕開けとなる、こらからの世であるぞ。

永遠につながりつづく神の経綸、人の身は夜寝て朝起きての繰り返し最後は永眠と申すなれど、目をつむりて現の世を去りても眠りつづけるのでは無く、霊界で目醒めれば霊界の五用が始まるのであり、人の生命は現(九)の世だけのもので無く、〇(霊)界へと続くのであるぞ、その事を知ればつながり続く永遠の神の四九三に仕えてゆくのであるぞ。

真言誠の神交の道は永遠に神に仕へ永遠の生命を賜る道の開きとなるのであるぞ。

苦しみ悩み悲しく辛い事のある人生の闇を晴らす為、自ら神の光を頂きて道を照らして歩みゆけよと記しておくなり。

言霊神也 ン。

神人和楽永遠の道

令和四年六月八日

天橋道士龍華斎修聖拝写。

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令和四年六月八日 小長谷修聖 三六九神示霊視篇。

2022-06-21 20:48:00 | 神示道
古代丹波(丹後丹波、但馬、若狭は国常立大神、経綸の始めの地場である)。

始め、丹後の男島(冠島)女島(沓島)、中津神之岩(鬼雷注 霊界物語に登場した岩、若狭湾の沓島から冠島に行く途中にある。「大地の母によると、両島の距離は約一里あり、その中間に畳2枚程の広さの中津神岩がある。別名、とどろ礁。海面から二メートルほどの高さがある。」)が拝され、次に天橋立や真名井神社、籠神社が拝されました。

(注 国祖の国常立尊が世の立替立直しを始められた、古代丹波国の内、丹後が要で、丹波が面舞台、但馬は後備をも示されており、男島は天照国照彦火明命降臨の島であり、女島は、世織津姫之神[亦 市杵島姫之命]の神島であり、中塚神の岩は竜宮の入り口であり、昭和五十四年7月一日、修聖 神業す。女島は艮の金神、国常立尊隠棲の島と大本教では言い、これらの島は籠神社の神島であり、大本教の神出現の神島ともされている。)

次に但馬豊岡の彦火明命(日の出神)、丹後より来臨(原文は異体字を使用)の来日岳(567m)次に陸の龍宮奥の院、但馬鉢伏山、素戔嗚尊の須賀宮と伝えられる氷の山(須賀ノ山)、昭和五十年10月5日、金勝要神の神霊石(みたまいし)が出現した神鍋山、金龍姫神に縁の蘇武岳や妙見宮の元、妙見山が次々と次々と拝され、光の線で結ばれていました。

(注 来日岳は、昭和四十六年5月18日山頂の船着岩にて山開きの神業に仕える、山下に、天照国照彦火明命を祀る絹巻神社がある。神鍋山の麓には、八重垣神社が坐す。蘇武岳の麓、(万場)龍ヶ尾に出口澄様の祀られた金龍神社の小祠がある。鉢伏山は昭和二十一年、出口性師と澄刀自が陸の奥の院を開かれ、磐座の所に石祠が祀られている。

奥但馬には日本三大権化の一つ三川山もある。)

最後、綾部の大本神苑金龍海の大八洲神社で、出口聖師が礼拝されている様が見えました。

(注 金龍海は世界の海の型で、大八洲や男島、女島や厳島や何島か島が築かれている。
世界の平和を祈っておられる姿であろう。
金龍は国常立尊の龍体でもある。)

(注 丹波=日出る国、その要が男島女島、天橋立真名井ヶ原である。)

(注 丹後、但馬には大本経綸に縁ある神々の神山、神島がらある。)

(注 日本三大権現、大峰山、伯耆大山、但馬三川山。)

(注 天の三体大神=天之御中主神、高皇産霊髪、神産巣日神)
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鎮魂道。

2022-06-15 10:00:00 | 坐道
神の黙示は、則ち、吾俯仰観察する宇宙の霊力体の三大を以ってす。

一、天地の具象を観察して真神の体を試行錯誤すべし。

一、万有の運化の毫差なきを以て真神の力を思考すべし。

一、活物の心性を覚悟し、真神の霊魂を思考すべし。

霊学の要は浄心にあり。


神がその人に伝授される。

その証しである鎮魂石をもって、そこに、意識を集中する。

その証しである、磐笛を以て、神界と人界を宥和するのであります。

鬼雷述べる。磐笛とは神霊を呼ぶ為の神石ではありません。人と神と磐笛の精霊と共に、地球を癒す、神と人と精霊を和す、音霊の発露で御座います。

共に神縁ある身魂に授かれし神石でございます。

神が、鎮魂石や磐笛を授ける由縁は一重に、随神あるのみであり、神は常に、人との繋がりを大切にされておられます。

ただの、自然に落ちている石。そのただの石は生物で無い為に、地球創世から億年と活きているので御座います。。。神なる石をもって活石と申しますね。

鎮魂石は一センチ内外の玉石、真丸に近い石であります
磐笛は吹けば鳴る石。共に自然石であり、鎮魂石を水晶石に代用するお方もありますが、それは、ナンセンス。磐笛をお金で買うのもナンセンスでございます。

鎮魂石、磐笛は神域の海岸や川、縁ある神社にて賜れれば、良き哉。

扨て。

最初は、鎮魂印を示し、吾が御魂や心が鎮魂石に入り至り、尚且つ、天之御中主大神に通じると思念もする。

言わば、鎮魂法とは、人々の生活想念から、神為る存在に意識を変える行いでもあります。

鎮魂の法。

「神霊に通じ、神の御心を覚り、その心を吾が心として、まつりごとに誤りなきを期す。」
「人間の奥底に眠る天授の霊魂を神霊との交流によって目覚めされ、自己の霊魂を覆っている先祖からの罪穢れを神霊の御光に浴する度に、一枚一枚薄神を剥ぐように、徐々に祓い清めて、遂に本来の神授の霊魂の輝きを発揮し、遂には、霊肉分離し得て、自己の意志に基づき自由に霊魂の運転活用を計り神霊に接して神慮を覚り、神の御心を吾が心として、霊止(ひと)たる、道を完(まっと)うせんとする神法である。

かつて、戦前の大本教では、大本霊学として、出口聖師が受けられた神伝の鎮魂法と本田親徳霊学の鎮魂法帰神術をもって、神人合一の法として、その行法を行っていたが、みな、神による不可思議な神憑りに心を奪われて、その基(もとい)の鎮魂法をおろそかにされた。ゆえに、常に低級霊が憑きまとい、出口王仁師は、この道を断念されました。
言わば、御魂相応、心相応の神霊としか感合せず、多くの大本人には、真の神使が懸かることが無かった事によると考えます。

現在の大本教にも、鎮魂法があるようですが、一種の精神集中する為の行法であるようであり、真の鎮魂法では無いようです。

ちなみに出口聖師に縁ある身魂の信仰者は、霊界物語を音読されることによって、弥勒の世の到来を成す神業として、奉仕されておられます。

予言のみ、好きな信者は、ともすれば、妖言過言に、脱線するなり。

占いを、好きな信者は、ともすれば、自己の内神、覚えること無し。

神の道を歩む者には、全て、ありがたく、病、苦しみ、楽しみ、孤独、仲間たち、家族、全て嫌悪せずに、受け入れる。占いに頼らず、預言を好まず、随神のごとく、惟神のごとく、自然に従順であるのみ。

悪しきこと、破滅こと、良きこと、学べること、なんにでも、ありがとう。

(鬼雷述べる。私は、このような、綺麗事は嫌いであり、私自身、善なる者を愛し、悪なる者を憎む心は百倍界王拳であります。されど、此処に到達天、恬然であります。ああ、嫌いな者に心からありがとうと言える日が来るのであろうか。ああ、かむながらたまちはえませ。)

魂(たましい)は、賜りしヒ(霊)

「幽冥に通じる道、唯其れ専修に在り
」「鎮心活動」「神性の発揮」

「或いは己の霊を以て己の霊に対し、或いはおのれの霊を以て一人の霊に対し、或いは己の霊を以て一国の霊に対し、或いは己の霊を以て億萬無数の霊に対す。」
本田親徳翁。

鎮魂は、その人の強い意志と真心、努力さえあれば、専修によって一定の境地には、誰でも達するものである。

霊学は「真心を練る法」であり、これによって人生の意義人たる道を覚り、社会国家に各自の天職を通して、奉仕の誠を尽くすこそ、霊学の真の目的である。

鎮魂の要諦は、自己の奥底に眠っている霊魂の運転活動にあり、心が騒然としていては、魂の活動も発揮できないのである。(鬼雷述べる、渡辺勝義師は、鎮魂中、無念無想とならなければ、それは、真の鎮魂と、ならないと申されておられます。)

鎮魂は魂降り、魂触れ、魂殖ゆ、祓い、受霊等、密接に関連する。

即ち本田翁によれば、鎮魂の要諦は自己の霊魂の運転活動にあり、鎮魂の法を修する事により、霊肉分離の境地を会得し、ついで神界に出入りし得て、様々なる神霊の実在を探知し得るに至ると言うものである。

神ごとに、お仕えする時に一番気を付けなければならない事は、そこにお仕えする人が、見苦しい人間心(自我)を出して、道を穢し、知らず知らず、尊い御神業を、ご人業に堕とせしめてしまう事である。

神の道の畏しさ、厳しさというものを、知らない者は、おうおうにして、こうした誤りを犯すものであるから。
(鬼雷述べる。神の道とは、人欲を排した天理に至り、人心を捨て道心あるのみでして、人の見ていない日常生活のなかで、如何に神に仕えられるかが課題であると考えます。「小人閑居して不善を為す、のち君子を見て嫣然とその不善を覆い隠し、善を表す。」)

渡辺勝義師。


何事も鎮魂が必要である。

ある事を成さんとせば、まずその始めに当たって、いわゆる鎮魂をなさねばならぬ。

すなわち、四散している霊をその点へ集中する事が必要なのである。

もし、この事なしに着手しても決して成し遂げられるものではない。

レンズで集中すれば太陽の光線も家を焼く事ができる。

われわれの意念でもこれを一点に集めなければ、けだし、思いもおよばざる、大偉力を奉ずるのである。

吾人の生活の常住坐臥、これ鎮魂の姿勢でなくてはならぬ。

鎮魂の出来ない人は、一生涯になに一つできようはずがない。

吾が人の活動の準備としては、先ず何より第一に鎮魂の修業をなすべきである。

鎮魂の極地は、時、処を超絶しうるのである。
しかして、心身が健全でなくては、真の鎮魂は出来ない。

出口日出麿 運霊師。

かつて、出口王仁三郎 尋仁聖師は、鎮魂法帰神術を断念されました。そして、大本は聖師亡き後、神伝の鎮魂法は失伝されました。(本田霊学を継承されている方も殆どのおられないかと考えます。)

そこで、昭和の時代、大本の御神体を崑崙山へ遷神した、笹目秀和仙人は、戦後、和の大本、中の道院の連携をもって、神伝の先天坐法を鎮魂法の復活とし、大本と道院により、霊界物語の三五教のごとく、より弥栄に、綿密になろうとされましたが、当時の大本の三代教主直日さんはこれを拒絶されました。

出口聖師亡き後、大本教では、道院紅卍字会は中国の宗教であり、かつて、大本皇大御神=至聖先天老祖と唱された事実は失われて、別の神さまとなっていたからであります。

鎮魂法と先天坐法の違いは何であろうか。

鎮魂法は鎮魂石を以て、意識を集中する。

先天坐法は、意識を放棄し、虚心で坐る。

共に至る頂きは同じで御座います。。

鎮魂法は舟を自力で漕ぎ至る道。

先天坐法は筏に乗り自然に任せて流れて至る道。


自力あり 他力とありて 合わされば 十字の光 全てを救わん。







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