神戸市灘区、金鳥山の麓に保久良山があり、保久良神社がある。
1949年楢崎皐月氏が平十字と出会い、ぽくら神社の御神体である、カタカムナなる、神文字の羅列なる巻物を渡した。
そもそも、神に身体があるのであろうか。
皇室の天照太御神は、ヤタノ鏡を御神体にした。ゆえに、鏡を神体とした、神社も多し。
太古の縄文神道は、自然雷を崇め、磐座や磐境を御神体とする。
終戦時代、その御守りを持てば弾丸に当たらないとして、持て囃された、サムハラ神社の神文字。これも、サムハラの神文字が御神体とされる。
ある、宗教神道団体では猿の腰掛けを会員には内緒で御神体としている。
当然に、私から言わせれば、神に神体は無し。なんせ、神は無形無心。
人の妄想がそれを生むと。
それでも、私は神社に向かい、祈りはせずとも、お札は頂きます。感合して頂ける、諸縁は大切ですから。
さて、神文字。これを御神体なのであろうか否。勅である。
神体文字とは、神の働きを表し可動する。故に、神勅命。
サムハラ龍王は是をもって守護とする。
カタカムナは是をもって、効果とする。
かむながら。カタカムナ。
今日、私は兵庫県西宮市にある、越木岩神社へバイクで向かっていたが、途中で火事に合い、道路が封鎖されており、バイクから降り、歩道を歩こうかと思ったが、何故かそのまま、迂廻し、神戸市の保久良神社へ行ってしまいました。
保久良神社へ行くだけならば、良い。しかし、保久良神社へ行くならば、さらにその奥の金鳥山を越え、私のまい聖地、日の出の神の磐座へ行かねばならない。(寒い日なのに汗をかいて登山もせねばならない。やれやれ、疲れましたよ。)
この磐座は、陽(男)磐座。
これと対座する、磐座は同じく六甲山、六甲比売大善神社の裏に、陰(女)磐座が存在している。
保久良神社の主祭神は、いろいろあるが、椎根津彦命であり、境内に八代龍王が祭られているが如く、亀に乗られた御神霊である。海側には青木(青亀)の地名もある。
出口王仁師の霊界物語では、大道別命が国租国常立尊が引退する際、身を抛げ、一つは琴平別命(金毘羅)、もう一つは、日の出の神と成られた。
即ち、椎根津彦とは、彦火火出見尊であり、彦火明命であり、日の出の神なり。
ぽくらとは、火蔵なり。
そう言えば、境内の柵で囲まれたところに、雷磐座、もとい神成り磐座があります。柵を登り、神成り磐座に抱きついていた、おっさんとおばさんがいましたよ。
確かに神は磐座磐境に顕現さるけれど、それ自体は、神ではない。
それに抱きついて、力を求めているのでしょうが、欲すれば与えらず。
人間は、大好きなのが、得られるパワー。大きければ大きいほど嬉しい。
しかしだ、身の丈に合わない力等、宝の持ち腐れだし、入って来た力に対して、必ず、対抗する、反発する、抗魔が働く。力を得れば得るほど、滅びに近づく。亢龍悔有り。
さて、保久良神社の社報にこのような歌が書いてありました。
明治天皇御製
「いかならむ ことある時も うつせみの 人の心よ ゆたかならなむ。」
コロナ化により、人の心にも悪意(コロナに罹った人や看護する人に差別する心)が生まれやすくなっているが、そんな事よりも、自己の心、人としての良心を豊かにしておくれよと。
そんな感じかな。
さて、神に文字があるのであろうか。
否。神とはスピリットである。そこに文字は無い。
故にモーゼの十戒の刻まれた聖蹟は存在しない。
では、サムハラの文字、カタカムナのウタヒとは。
出口直刀自は、無学文盲であったが、独自の文字を著し、艮の金神のお筆先を示された。
神に文字は無いが形象を奇蹟する。
それを憶えた神人が成型し、文字とする。
古事記以前の書を神代文字の研究家である、吾郷清彦老師は、「古史古伝」の名付けられたが、偽書説が多く、正統性が無いとされるが、そもそも、古事記ですら、権力による正統成果が実り、大和朝廷にのみ偏る。つまる処、五十歩百歩神拳。
なんにせよ、効用なして、神文字となるのである。
さて、ぽくら神社へは、山道あるのみ。車やバイクは、侵入禁止。
いつも、この坂道を歩むと、かならず腰が痛くなる。登りきると、腰痛も無くなって汗をかくのみ。
それでも、朝も、昼も、多くの老若男女がこの坂を登っている。まさにたくましい。
ほくらなる 神の稜威は 千早振る 誠の道を 極めてしがな。