世に霊視なる言葉があります。過去に霊視スピチュアル、「オーラの泉」の江原啓之さんが有名ですね。その前は「愛の霊視の世界」の宜保愛子さんがおられます。霊能力破りの書として深見青山さんの「神界からの神通力」は一時ブームとなりました。そして、「青森の神様」こと木村藤子さんがおられます。
天眼通とは仏教において、六大神通力の一つであり他人の過去世を知る能力であり、止観(瞑想)修行に置いて禅定よる三昧(適)の次の勧行に移行した際に得られる自在な境地を表現したものなのであります。
鶴に乗った仙人こと笹目老人は当時200歳を超えた呂神仙に天眼通力について訪ねた際、神仙は「しかし、それを使えるように成るには60年の修行が必要だ。」「日本には、ずいぶん若くしてそのような能力を使うと言う者がたくさんいますが、前世での修行年限でも加算されるのでしょうか。」「そうではない。修行はあくまでも今生のものだ。その多くは自分の力では無く、何かの霊が憑依して、その霊に使用される。あるいは正しい指導霊がその人間を駆使していることもある。そのどちらかである。」
霊的道を研鑽する多くの者たちは霊視により神を観た、龍神を観た、稲荷神を観た、蛇神を観たと語ります。そして、その者たちは、常時観えることはないと申告します。彼らは一様に「必要な時に神様がみせて下さる」と述べます。そして、霊能力があると霊的過ちに陥りやすくなるので自分は神に守られていると。しかし、この半可通力を持たれる人は神に愛されているとは思いません。中途半端な霊力は、家代々のカルマが多いためとも考えられ、一時の霊視の具現は、やはり、憑霊の都合によるものが多いと考えます。「大道に奇なく、正道に不思議なし」真に神に守られているのであれば、何も視えないのが当たり前なのです。
霊視とはどこから来るのであろうか。霊視出来る人と全く見えない人との差があるのであろうか。科学万能主義から見れば、妄想的病気であり、盲信的幻覚者である。霊能至上主義者から見れば、選ばれた人間であり、人間の持った素晴らしき能力となる。
霊界は人の心と共に無限に広まっています。そしてその想念界を観ることが出来る力を霊視と述べます。しかし、霊視は本来の人間が持つ、霊的七つの門(チャクラ)から発せられるものではありません。「天眼、天目、直日の力、いづのめの御魂」と呼ばれる、魂に繋がる機関は、神の根源にも繋がりますが、決して、霊界なる想念界には繋がらないからです。ゆえに、霊視とは自己が本来持つ能力ではなく、憑依、慿霊が主体となるようです。言わば霊視が出来る人間は憑依されやすい、性質があるようです。
神懸かりの法「鎮魂法帰神術」で一世を風靡した大本の出口王仁三郎氏は、かつての弟子「心霊科学協会」の創始者、浅野和三郎氏の母危篤の際、快方に向かうと霊視されたが、回復される事無く亡くなってしまった。霊界に通じ数多の眷属を使われる出口聖師でも霊視の世界は難解なのでもあるのです。また、鎮魂帰神による、神人合一の雛型を中止されたのも王仁三郎聖師でもあります。鎮魂による御霊鎮めは、鎮めるどころか、妖魅界への門を広げたに過ぎなかったためです。静寂に行きつかない鎮魂に神懸りするのは邪神どもばかりだったのです。聖師が霊能による、道は失敗であったと悟ったから断念されたのです。出口王仁三郎氏程の霊覚者が禁止された霊視霊能の世界の危険性がここでお分かりになるとおもいます。
霊視が出来る人間が特別に選ばれた人間なのでしょうか。否です。人には個性があります。姿も性格も、運命も違います。それぞれが宇宙を表しているのが個性です。スポーツに優れた者、営業に優れた者、接客に優れた者、偏差値に優れた者、容姿に優れた者、職人技に優れた者、音感に優れた者、霊視霊言霊聴(憑依)に優れた者…様々です。他人と比較すれば、人の心は、優劣を争いますが。道心から宇宙から見ればそれぞれの宇宙があり、天地があるそれだけです。何故なら人は小天地であり、小宇宙なのですから。ゆえに、不思議なことや奇跡をおこなうからと言って、ここに尊貴は無いのです。
霊視の憑依する存在とは、高級神霊から龍神、天狗、稲荷、蛇神などおられます。高級神霊は御魂の成長に合わせて、あまりはっきり見せないと言われています。狐が憑くと千里眼のようによく見えると言われますね。眷属の種により、霊能の機能に幅があるのが特長ですが多くの霊視者達はそれにより、「あの人には狐が憑いている」「タヌキが憑いている」「蛇が憑いている」等と、人が人として見れなくのが最大の特徴であります。例えば伊勢白山○リ○マン氏はワー○ドメ○トの深見○州氏にかつては海老の神霊が憑いていたが今は、腐って地獄の黒蛇が憑いていると。逆に深見○州氏はリ○マン氏に金毛九尾が憑いていると。(笑)
神の教えを、愛を、思いやりを述べながら、他者を排斥する教祖様は多くおられますね。所詮は喜怒哀楽をもつ人間に過ぎないのです。
ある宗教団体では神法悟徳する会というのを神社にて高額有料で開催されています。神法の体得には神様の御神姿を思い浮かべるのが重要とかで、その宗教団の教祖様が霊視した神社の神様の姿を、信者に教えておられるようですが、本来、神に姿形は無いのです。仮に顕現神として、霊界に現れたとしても霊視者の人格、能力によって様々に姿を変えます。なんせ、想念界なのですから。自分が観た姿をあたかも、真実の神だと教えることは大変な罪であります。おそらくこの教祖様は、子孫が残らないでしょう。
伊勢白山○リ○マン氏も神社に行き、人形に観える神様はランクが低く太陽(惑星・恒星)の形象に観える存在はランクが高いだのなんだのと言われておられます。そして、そういう、恒星の神様が観えるリ○マン氏の存在は次元が高い等と言っているようにも聞こえます。残念ながらこの思想は危険です。霊界に存在する凶党霊はそのように人の心の高慢なプライドに合わせ、太陽に化けたり、人型の神に化けたりする事は可能なのです。観える世界がどのようなものであれ、それに囚われたならば、自己が観えた神が最高であり、他者は劣るという、傲慢な世界に陥りやすいと言えるのです。
霊視は確実に存在しますが不安定な要素が多いのです。これを絶対視して、他人の悩みなどを解決しようとしても、一時は気持ちが晴れ、悩みも解決したように感じますが、時間がたてば、別な形で悩みが出て、依存心のみが高まり、最後にはお互いに不幸になるだけなのです。私個人の意見としては、たとえ、他人に観えないものが観えたとしても、自己の特性であると、他人にはなるべくしゃべらず、自己の心を修めるべく修養しながらその特性を磨くべき出ると考えます。「心を磨き、自己の内を観ながらして視ず。外の世界を見ながらして視ず。」
真の修行とは、奇異があろうとも、そこに真理を求めずに、社会生活の中で、苦しみ楽しみながら、内観を得、真の自己を解放し、自己の宇宙を完成させ、顕わしていく、ここでしか真の天眼は開かないと思うのです。
ちなみに私は天目には「チャクラ」の関与を述べました。これはあくまでも自己開発の道であり、無為自然にしか開かれません。チャクラを開く秘法、セミナー等があると思いますが、他人の関与では絶対に開かれません。開くと称するは嘘です。また、チャクラを軽視する、教祖様もおられますが、覚者でないということになると思います。啓眼を以って真理を見抜くことを希望いたします。
ちなみにブックマークにある「教祖様に突っ込むページ」も参考にして下さい。
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天眼通とは仏教において、六大神通力の一つであり他人の過去世を知る能力であり、止観(瞑想)修行に置いて禅定よる三昧(適)の次の勧行に移行した際に得られる自在な境地を表現したものなのであります。
鶴に乗った仙人こと笹目老人は当時200歳を超えた呂神仙に天眼通力について訪ねた際、神仙は「しかし、それを使えるように成るには60年の修行が必要だ。」「日本には、ずいぶん若くしてそのような能力を使うと言う者がたくさんいますが、前世での修行年限でも加算されるのでしょうか。」「そうではない。修行はあくまでも今生のものだ。その多くは自分の力では無く、何かの霊が憑依して、その霊に使用される。あるいは正しい指導霊がその人間を駆使していることもある。そのどちらかである。」
霊的道を研鑽する多くの者たちは霊視により神を観た、龍神を観た、稲荷神を観た、蛇神を観たと語ります。そして、その者たちは、常時観えることはないと申告します。彼らは一様に「必要な時に神様がみせて下さる」と述べます。そして、霊能力があると霊的過ちに陥りやすくなるので自分は神に守られていると。しかし、この半可通力を持たれる人は神に愛されているとは思いません。中途半端な霊力は、家代々のカルマが多いためとも考えられ、一時の霊視の具現は、やはり、憑霊の都合によるものが多いと考えます。「大道に奇なく、正道に不思議なし」真に神に守られているのであれば、何も視えないのが当たり前なのです。
霊視とはどこから来るのであろうか。霊視出来る人と全く見えない人との差があるのであろうか。科学万能主義から見れば、妄想的病気であり、盲信的幻覚者である。霊能至上主義者から見れば、選ばれた人間であり、人間の持った素晴らしき能力となる。
霊界は人の心と共に無限に広まっています。そしてその想念界を観ることが出来る力を霊視と述べます。しかし、霊視は本来の人間が持つ、霊的七つの門(チャクラ)から発せられるものではありません。「天眼、天目、直日の力、いづのめの御魂」と呼ばれる、魂に繋がる機関は、神の根源にも繋がりますが、決して、霊界なる想念界には繋がらないからです。ゆえに、霊視とは自己が本来持つ能力ではなく、憑依、慿霊が主体となるようです。言わば霊視が出来る人間は憑依されやすい、性質があるようです。
神懸かりの法「鎮魂法帰神術」で一世を風靡した大本の出口王仁三郎氏は、かつての弟子「心霊科学協会」の創始者、浅野和三郎氏の母危篤の際、快方に向かうと霊視されたが、回復される事無く亡くなってしまった。霊界に通じ数多の眷属を使われる出口聖師でも霊視の世界は難解なのでもあるのです。また、鎮魂帰神による、神人合一の雛型を中止されたのも王仁三郎聖師でもあります。鎮魂による御霊鎮めは、鎮めるどころか、妖魅界への門を広げたに過ぎなかったためです。静寂に行きつかない鎮魂に神懸りするのは邪神どもばかりだったのです。聖師が霊能による、道は失敗であったと悟ったから断念されたのです。出口王仁三郎氏程の霊覚者が禁止された霊視霊能の世界の危険性がここでお分かりになるとおもいます。
霊視が出来る人間が特別に選ばれた人間なのでしょうか。否です。人には個性があります。姿も性格も、運命も違います。それぞれが宇宙を表しているのが個性です。スポーツに優れた者、営業に優れた者、接客に優れた者、偏差値に優れた者、容姿に優れた者、職人技に優れた者、音感に優れた者、霊視霊言霊聴(憑依)に優れた者…様々です。他人と比較すれば、人の心は、優劣を争いますが。道心から宇宙から見ればそれぞれの宇宙があり、天地があるそれだけです。何故なら人は小天地であり、小宇宙なのですから。ゆえに、不思議なことや奇跡をおこなうからと言って、ここに尊貴は無いのです。
霊視の憑依する存在とは、高級神霊から龍神、天狗、稲荷、蛇神などおられます。高級神霊は御魂の成長に合わせて、あまりはっきり見せないと言われています。狐が憑くと千里眼のようによく見えると言われますね。眷属の種により、霊能の機能に幅があるのが特長ですが多くの霊視者達はそれにより、「あの人には狐が憑いている」「タヌキが憑いている」「蛇が憑いている」等と、人が人として見れなくのが最大の特徴であります。例えば伊勢白山○リ○マン氏はワー○ドメ○トの深見○州氏にかつては海老の神霊が憑いていたが今は、腐って地獄の黒蛇が憑いていると。逆に深見○州氏はリ○マン氏に金毛九尾が憑いていると。(笑)
神の教えを、愛を、思いやりを述べながら、他者を排斥する教祖様は多くおられますね。所詮は喜怒哀楽をもつ人間に過ぎないのです。
ある宗教団体では神法悟徳する会というのを神社にて高額有料で開催されています。神法の体得には神様の御神姿を思い浮かべるのが重要とかで、その宗教団の教祖様が霊視した神社の神様の姿を、信者に教えておられるようですが、本来、神に姿形は無いのです。仮に顕現神として、霊界に現れたとしても霊視者の人格、能力によって様々に姿を変えます。なんせ、想念界なのですから。自分が観た姿をあたかも、真実の神だと教えることは大変な罪であります。おそらくこの教祖様は、子孫が残らないでしょう。
伊勢白山○リ○マン氏も神社に行き、人形に観える神様はランクが低く太陽(惑星・恒星)の形象に観える存在はランクが高いだのなんだのと言われておられます。そして、そういう、恒星の神様が観えるリ○マン氏の存在は次元が高い等と言っているようにも聞こえます。残念ながらこの思想は危険です。霊界に存在する凶党霊はそのように人の心の高慢なプライドに合わせ、太陽に化けたり、人型の神に化けたりする事は可能なのです。観える世界がどのようなものであれ、それに囚われたならば、自己が観えた神が最高であり、他者は劣るという、傲慢な世界に陥りやすいと言えるのです。
霊視は確実に存在しますが不安定な要素が多いのです。これを絶対視して、他人の悩みなどを解決しようとしても、一時は気持ちが晴れ、悩みも解決したように感じますが、時間がたてば、別な形で悩みが出て、依存心のみが高まり、最後にはお互いに不幸になるだけなのです。私個人の意見としては、たとえ、他人に観えないものが観えたとしても、自己の特性であると、他人にはなるべくしゃべらず、自己の心を修めるべく修養しながらその特性を磨くべき出ると考えます。「心を磨き、自己の内を観ながらして視ず。外の世界を見ながらして視ず。」
真の修行とは、奇異があろうとも、そこに真理を求めずに、社会生活の中で、苦しみ楽しみながら、内観を得、真の自己を解放し、自己の宇宙を完成させ、顕わしていく、ここでしか真の天眼は開かないと思うのです。
ちなみに私は天目には「チャクラ」の関与を述べました。これはあくまでも自己開発の道であり、無為自然にしか開かれません。チャクラを開く秘法、セミナー等があると思いますが、他人の関与では絶対に開かれません。開くと称するは嘘です。また、チャクラを軽視する、教祖様もおられますが、覚者でないということになると思います。啓眼を以って真理を見抜くことを希望いたします。
ちなみにブックマークにある「教祖様に突っ込むページ」も参考にして下さい。
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