正月休み最後の日、一月四日、六甲山、日の出の神の磐座(鬼雷の自称)へ行きました。
去年は越木岩神社へ行こうとしたけれども、途中に火事で道路が封鎖されており、仕方なく、保久良神社へ行き、そのまま、金鳥山を越えて私のマイ聖地、日の出の神の磐座へ行きましたが、今回はチャンネルが合った感覚があり、赴きました。
人には、必ず、マイ聖地が備わっております。
私が初めて、神を感じたのは、宮城県仙台市です。いやその周辺。
小学生の時、義父が運転する車に母と私と姉が乗っており、私は寝てしまい、あるところに止まり、降りた瞬間に、そこに神が、居られると感じた事がありました。何処の神社仏閣であったかは、わかりませんが。
私の小学校時代の心は、世界征服を目論み、世界を破滅させようと、厨二病に罹っておりました。今でも中二病は、治っておりませんが。
故に悪の心は自然でしたが、その、車から、降りた瞬間の、神との出逢いであるかは、わかりませんが、「ああ、神様がおられる」と、感じた感動は、今でも覚えております。
太陽の光となんとも、言えない、温もりの優しさ。愚かな、小学生時代、初めての感合。
まあ、後ろの百太郎が大好きであった時代でもあります。
さて、人は神に逢いたい時、神社に行きますね。
それは、善い行いでございます。
神はあなたを待っておられます。
されど、それをさらに超えた、世界。
自己の克己により、限界を超えた、聖地。
それは、自己の善悪の因果も含み、また、天の命を晒しめす、誠の世界。自己の唯一の感合のみで会える聖地。
本当の神が坐す天地。
本当に望めば、案内される場所。
私は大阪に来て以来、住吉大社が好きでした。
しかし、奈良の大神神社は、好きでありませんでした。
ある時に、大神神社の聖地にして、御神体でたる三輪山に登らせていただきました。
その時の感動はなんとも言えない、素晴らしさがありました。
登拝して、初めて、三輪山の真価を判らさせて頂きました。
御神体である三輪山に登ると祟りがあるとか、けしからんと、不敬であるとか、それは、人それぞれ。
私は祟りがあれども、それは、構わない。それよりも、三輪山の神との神交。
登れは、三輪神仙界が拡がる。
三輪の神は、その当体である神山に登る人間を愛されておれると。
そして、神と本質とは、天地の運行。自然の生成化育です。そこに、人が交わると、天地人、神そのものの宇宙となります。
六甲山は、鷲林寺に於いて、麁乱神との出会いがあり、剣坐における、萎縮と憑依、解放と六甲大神の本質との試練あり。。。
保久良神社の八代竜王との邂逅、そして、珍彦こと、天照国照、日の出の神との出逢い。
ちなみに、弥勒とは、三十六相化身するらしい。
三輪の神。六甲の神。合わせて三六。
語呂合わせかも知れないが、わたしは三輪の神、六甲の神にも、仕えておるのであります。
此処で告知です。なんてね。
六甲山には、八百万の神々が天地人なる人を待たれておられます。
簡単にいえば、六甲の神は貴方との感合を待たれておられる。
六甲山を磐座を好きな方は、マイ聖地を持たれておられる方も、多いと考えます。
伏見稲荷大社で、例えて言えば、「必ず繋がる社がある」と言われます。
私なんかで言えば、稲荷山の大磐神社と私独自の稲荷山の磐座、そして、なんか親しむ、天龍神社。
稲荷と飯成の神。人間の衣食住を助ける神様であり、それを狐と混同するは、人間の勝手であり、神使は確かに狐の姿もあり、龍の姿もとられる。
まあ、祟りを恐れる人間は、スの神を知らず。
ス神とは、スベル神。大宇宙そのもの。
大銀河の神に親しめば、眷族を神と観る事は決してございません。
四国高知の津野山の神々に親しまれる、双子の姉妹は、確かにマイ聖地を得ておられる。
しかし、何事も悠々として得た結果では無い。
地球の痛み、人の差別を、我が如くして得た結果であります。
此処で難しいのは、人が楽して、安楽に臨む世界に神は居られないと言う事。
苦悩の最中、真剣に悩み、苦しみの最中、そこに有り難みを感じる心、そこに神が現れるのかも知れない。
個人的には、苦しみも嫌だし、病気も困る。楽して神と逢いたいが、神の道に安楽や快楽は皆無なり。
苦悩を乗り越えた、結果として、喜びを与えられるのみ。かも。
神の道は、真に苦しい道であると、出口ナオさんは、矢野シンさんに述べておられましたね。。。
「狭い門からはいれ。
滅びに至る門は大きく、その道は広い。
そして、そこから入って行く者は多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。
そしてそれを見出す者が少ない。」
そして。
「善き種を蒔く者は、神の子である。
畑は世界である。」
この大天地の令和三年。その最中、私は思いがけず、マイ聖地を得た気になっている愚か者でございます。
それは、孤独な私を憐れんだ神の奇蹟であったのかも知れない。
ただ、道を歩めば、必ず、同行者が現れる。それは、神であり、友であり、同志である。
様々な、軌跡の最中、私にも同志ができつつある事、邪悪な私に、とっての奇蹟。
すべからく、ありがとうございます。