瞑想と禅の大家、故ダンテス ダイジと云う方の弟子とお話をしたことがあります。その弟子は、師であるダンテスさんの事をダイジと呼び捨てにしていました。だけど師をとても尊敬していました。かのオウムの教祖の瞑想の師でもあるようです。
ダイジさんは、偉ぶるところが無く表情は、子供のようだったみたいです。彼の説法は、独特で、酒を酌みかわしながら、釈尊を語り、イエス、キリストを語り、道元さんを語り、ヨガの聖者を語り、出口王仁三郎さんを語ったようです。教師と学生の様な一方的な説法は、本当の説法でなく、ざっくばらんに、語りあうのが真の説法だと言っていたようです。ああ、私も酒を飲みながら、ダンテス ダイジさんと語りたかったなあ。
瞑想で仮死を体験し死を克服するような教えもあったような気がします。あまりはっきりと憶えていません。すみません。
ダイジさんは、瞑想しながら自殺されたようです。私は、非常に残念に思います。
その弟子の方は、ダイジさんの死後、老祖の弟子と成りました。縁は、笹目仙人で、仙人の著書を読み、太陽の精気を食らう秘法、月の精気を食らう秘法を教えてもらいに行って断られ、代わりに道院に入るように指示されたようです。
ヨーガの瞑想は、1,2時間は、座り続けるのに先天坐が、初心者は、16分。最大で104分だと聞いてその程度かと思われたようです。ヨーガは、意識が下部に集中するのに対し、先天坐は、どこにも集中しない事に驚かれたようで、本当に自然の坐であると言われていました。
先天坐は、どこにも意識を集中しない為に、気が充足すれば、体の八脈全てを気が回り、長じては、すべてのチャクラが自然にバランス良く開かれるようです。
瞑想で気をつけなければならない事は、自分のみを見つめ続け自己の阿頼耶識に囚われてしまう恐れがある事です。阿頼耶識に刻まれた悪の因(前世の)に触れるとやはり心が病むようです。これを防ぐためには、日常生活の中での五常、仁、義、礼、智、信が大切なようです。日常の社会生活が主で瞑想が従であるのが良い様です。
ちなみに瞑想ではグルと言う、指導者に盲目的に従わねばならぬようです。これが瞑想の道を穢していると私は考えます。善き指導者に会い、御想を指示されるのは善い事ですが、それをグルからの相伝とし、服従せねばならぬのは誤りであると考えます。
瞑想とは簡単に言えば、「内なる神と出会う、旅」。他人の瞑想的、悟りを真実であり、悟りの境地と考えるのは、自己の宇宙を否定してしまいます。やはり、善き指導者の意見を大切にし、その悟りを鵜呑みにせずに、己が神に出会う道でなければ、瞑想の真なる道から、離れてしまうと考えます。
多くの方に尊敬されておられる中村天風さんは、昔の軍部の暗殺者でした。彼も因果に因り自分が死の病気になった時、ヨーガをされるグルと出会い、ヨーガの秘伝を得て、命を救われています。たとえ、人斬りであってもヨーガで真を得て覚神すれば、その悪しき因をも超越してしまうということでしょうか。瞑想とは、静であり、黙です。静寂の中に回光の働きがあります。その境地は体に自然の治癒力を与えるのは真実であります。
三国志の関羽も武将として、たくさんの人を殺めています。しかし、関羽の誠は輝き死後、神と成っています。道院にも神使として登場しています。生前、関羽も仏教に寄与されて禅もされておられたようです。
だからと云って人殺しは、絶対にだめですよ。自分の魂を輝かせると陰陽も超越するという話です。
「多くの道は、山ほどあります。しかし自分が歩む道は、一つだけです。」
「道の一途は、万修の帰する所なり、偽為らず、虛ならず、無為よりして有為に、有為を復して無為と為す。」
<2014-9-14、一部記事を訂正致しました。>
ダイジさんは、偉ぶるところが無く表情は、子供のようだったみたいです。彼の説法は、独特で、酒を酌みかわしながら、釈尊を語り、イエス、キリストを語り、道元さんを語り、ヨガの聖者を語り、出口王仁三郎さんを語ったようです。教師と学生の様な一方的な説法は、本当の説法でなく、ざっくばらんに、語りあうのが真の説法だと言っていたようです。ああ、私も酒を飲みながら、ダンテス ダイジさんと語りたかったなあ。
瞑想で仮死を体験し死を克服するような教えもあったような気がします。あまりはっきりと憶えていません。すみません。
ダイジさんは、瞑想しながら自殺されたようです。私は、非常に残念に思います。
その弟子の方は、ダイジさんの死後、老祖の弟子と成りました。縁は、笹目仙人で、仙人の著書を読み、太陽の精気を食らう秘法、月の精気を食らう秘法を教えてもらいに行って断られ、代わりに道院に入るように指示されたようです。
ヨーガの瞑想は、1,2時間は、座り続けるのに先天坐が、初心者は、16分。最大で104分だと聞いてその程度かと思われたようです。ヨーガは、意識が下部に集中するのに対し、先天坐は、どこにも集中しない事に驚かれたようで、本当に自然の坐であると言われていました。
先天坐は、どこにも意識を集中しない為に、気が充足すれば、体の八脈全てを気が回り、長じては、すべてのチャクラが自然にバランス良く開かれるようです。
瞑想で気をつけなければならない事は、自分のみを見つめ続け自己の阿頼耶識に囚われてしまう恐れがある事です。阿頼耶識に刻まれた悪の因(前世の)に触れるとやはり心が病むようです。これを防ぐためには、日常生活の中での五常、仁、義、礼、智、信が大切なようです。日常の社会生活が主で瞑想が従であるのが良い様です。
ちなみに瞑想ではグルと言う、指導者に盲目的に従わねばならぬようです。これが瞑想の道を穢していると私は考えます。善き指導者に会い、御想を指示されるのは善い事ですが、それをグルからの相伝とし、服従せねばならぬのは誤りであると考えます。
瞑想とは簡単に言えば、「内なる神と出会う、旅」。他人の瞑想的、悟りを真実であり、悟りの境地と考えるのは、自己の宇宙を否定してしまいます。やはり、善き指導者の意見を大切にし、その悟りを鵜呑みにせずに、己が神に出会う道でなければ、瞑想の真なる道から、離れてしまうと考えます。
多くの方に尊敬されておられる中村天風さんは、昔の軍部の暗殺者でした。彼も因果に因り自分が死の病気になった時、ヨーガをされるグルと出会い、ヨーガの秘伝を得て、命を救われています。たとえ、人斬りであってもヨーガで真を得て覚神すれば、その悪しき因をも超越してしまうということでしょうか。瞑想とは、静であり、黙です。静寂の中に回光の働きがあります。その境地は体に自然の治癒力を与えるのは真実であります。
三国志の関羽も武将として、たくさんの人を殺めています。しかし、関羽の誠は輝き死後、神と成っています。道院にも神使として登場しています。生前、関羽も仏教に寄与されて禅もされておられたようです。
だからと云って人殺しは、絶対にだめですよ。自分の魂を輝かせると陰陽も超越するという話です。
「多くの道は、山ほどあります。しかし自分が歩む道は、一つだけです。」
「道の一途は、万修の帰する所なり、偽為らず、虛ならず、無為よりして有為に、有為を復して無為と為す。」
<2014-9-14、一部記事を訂正致しました。>