玄徳道

道を語るブログです。

令和五年三月 三六九神示

2023-03-24 04:44:00 | 神示道
時は流れて止まらず、歳月は人を待たずと申すぞよ。

辛くとも悲しくとも、今の一刻、今日一日有難く大事につとめねば、ならぬぞよ。

(注 言霊は神也と申すが、時の流れその間をもって神の仕組みは現れる、時は神也とも申せる。)


扨もロシアとウクライナの戦争が始まって早や一年。

時日のたつのは、早いものであるぞ。

戦い治る兆しは見えず、犠牲は増すばかりじゃ。

ロシアもウクライナも、我が正しいばかりで争い、折り合いはつかず、要の外れた扇の如く、治めようも無い有様であり、頭(かしら)と立つ者、引っ込みがつかず意地を張り合い、犠牲になる者が増えるのが判らぬのか。

国常立大神は、黒海に居る眷属の大龍神にトルコの大地震を起こさせて早く戦争を止めよと警告を発しておれども、地震は自然の働きと神の意を解する者無く、一つも改心いたさぬから、言うても聞かせても見せて判らんなら、もっと厳しい警告(きずけ)を現すぞよ。

この度の日本のロケット(H3一号)の失敗も、今の時は宇宙の開発どころで無い、この地球を如何に守るかと言う事の方が人類にとって大事な事であるぞよ。

世界人類の平和の要と立たねばならぬ、日本の国の頭から国民まで、その事が判らず、宇宙や地球を汚すばかりであるから、この様な失敗も大きな警告(きずけ)であるぞよ。

何度も何度も申してあるが、先の大戦で世界を相手に大戦争を起こし三百万人に余りある犠牲者を出し、アジアやその他の国々の人民を苦しめ、その上に原爆二発投下され、敗戦となり、天皇から国民一人一人に到るまで、もう二度と戦争はせぬと神に誓いたのであり、禍(わざわい)の裏に福(神の愛)あるが、あれだけ大きな犠牲を、祓いた事は、言論の、自由を封じられて来た大なる岩戸開きとなり、アジアの白人による植民地解放の口火ともなりたのであるが、今、再び、世界の流れじゃと申して、軍備増強を急いでおるのは、日本を苦渋の渕へ落とし入れ、その末、亡ぼさむとする、思凝霊の策謀(はかり)である事に、気づかねば、これ以上軍備を増し日本も実質の軍隊を持つようになれば、日本を狙う大国の思うつぼでありて、自在にされてしまうぞよ。

少々攻められても、対抗せぬ覚悟を持って、日本も世界も救われる事となるのであるぞよ。

そして、日本に課せられた、世界平和の要の使命をはたす事が、出来るのであるぞよ。

ウクライナにすれば、小さな領土としてロシアに自在にされる事は堪られぬ事であろうが、ロシアの自在になるまいとすれば、戦かわねば、ならず、欧米諸国も、戦争に巻き込む事となり、辛いところであるが、今のままでは、多勢の者が犠牲になるばかりであるぞよ。

欧米諸国はウクライナに武器を援助いたして、ロシアを押さえつける為、ウクライナに代理戦争をされておるが如きであり、今、ぬきさきならぬ、ところであるが、真におろかな事を為しておる事に、御互いに気づかねば、世界がどうにもならぬ、ギリギリのところまで、まいり、第三次の世界大戦にもなりかねないところまでまいりておるぞよ。

何程、武器の援助を致したとして、それでロシアが手を上げ戦争が止むものでも無く、ロシアもウクライナもその他の国々も、人民の為、平和になる事を望むなれば、国々の頭が、我も欲も意地を捨て、生命がけで、対話の道を開かねば、中国の中途半端の仲介をいたしたとしても、皆、自国の利害を考えての事であり、真の平和を願う心で無いから、成就する事もないぞよ。

今となりては、中途半端の和解では争いは又起こり治る事は無いぞよ。

止まる事なき、自我と欲にとらわれた、世界の大国の頭等であるから、早く、そのおろかさに気ずき、目を醒さねばならぬぞよ。

皆、平和平和と唱えつつ腹の中は、我が身の自我や欲、都合勝手の事を思っての事であるから、起こるのは.利己主義の争いであり.世界平和は段々遠のいてゆくのであるぞよ。

人類のおろかさを目にもの見せて、おるのがロシアとウクライナ戦争であるぞよ。

赤き辰も、赤き鬼も悪役であるなれど、人類が自我と欲に何時までも、走れば、争う者は共倒れとなり、亡びねばならぬ。

強い者勝ちの世は済んでおる事に気づかす役目であるぞ。

さあ、これから、世界はどうなるか、宇宙開発どころで無い、足下の地球の穢れを浄め、人類が安心して暮らせる地球の再生の為に尽くさねばならぬのが、今に生きる人類の使命であるぞ。

国際法を通じぬようになりておる世界、段々に身にしみて、生命を如何に守りゆくかを考えねばならぬ時代となるぞよ。

これから、世界はどうにもならぬ、ギリギリのところまで、まいり、これで終わりかと思えるような事も起こりて来る。

されど、そこが大事なところ。

終わりなり始めなりで、ギリギリところで、新しき世の始まりとなり、真の神力、真の生命が炎ともえ上がり、新しき道を照らす時代が来るのじゃ。

それを日の出のみろくの世と申してあるが、未だ未だ先の事じゃ。

善悪からみての大舞台を進まねばならぬ。

その日その時の来るまで、辛くとも悲しくとも日々大切に今、為すべき身魂の使命を果たしつつ、生きてゆかねばならぬのじゃ。

世界の平和を祈りつつ、神々と共に歩もうぞ。

人間誰にも利己主義の心あれど、一つでも人の倖せを祈り尽くしてゆけば、我が身の因縁の荷も軽くなり、ささやかな、他の倖せを祈る思いやりや、行いが積み重なりて光となり、世の闇(病)を晴らすのじゃ。

艮金神、国常立大神の三千年の念願、日の出の神と龍宮が地のみろくの神と現れて実らせまいるのじゃ。

その世替わりの大浄めがコロナであり、ロシアやウクライナやその、他の国々はの戦いであり、トルコの地震でもある事を思い、荒事は、新事の起こる兆しである事を忘れる事なく、歩みてゆけよと示すぞよ。

大和即大話。

言霊神也 ン。


令和五年三月八日

天橋道士 龍華斎修聖拝写。


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令和五年三月八日、小長谷修聖 三六九神示霊視篇。

2023-03-23 17:25:00 | 神示道
薄暗い夜空に大なる赤龍が赤黒い炎を吹きながら舞い、その頭上に大きな赤鬼が乗り龍の髭を持ってあやつるが如く上に舞い上がりながら、ロシアのクレムリン宮殿、そして、中国の紫禁城、上空を行ったり来たりしており、その龍の後ろに小さい赤龍が何頭もついた.飛んでおりました。

(注 赤き辰や赤い鬼は、ロシアや中国の事であり、小さい龍は、ロシアや中国に従う国。)

次に出雲の熊野神社の神楽殿で、出口聖師が素戔嗚尊に扮し、八岐大蛇退治の舞をされていました。

(注 八岐大蛇は頭がたくさんあって、治らぬ体主霊従の今の世界を象徴し、その退治、即ち世の立替立直しに、素戔嗚尊が活動される時代である事の御示しであろう。天照大神を厳霊とすれば、素戔嗚尊は瑞霊となる。)

次に兵庫県豊岡市にある、海抜五六七mの来日山と九州上五島に海抜三六九の丹那山の一二三滝(ひふみのたき)が拝されました。

注、

   三
五六七=みろくの理合が示される。
   九

来日岳は昭和四十六年五月十八日山開き神示に仕え、丹那山一二三滝は昭和四十八年五月二十七日に神事に奉仕す。

一二三の滝の下に石佛が沢山、祭られてあり、その後、光の道より、弥勒佛の石像を祭る。
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内流道。

2023-03-13 20:40:00 | 奇道
何を内流と言うのであろうか。

神と人とが、他人、宗教、教祖と関わらず、神と一対一に直接に交わる。それを内流と呼ぶ。

ちなみに、守護霊や眷属神との会話とは、大分意味が違う。

スピチュアルの世界では、人を教育し、守る守護霊があるらしい。

人を守る為の霊。また、反対の人を害毒する為の霊。

まあ、守護霊云々の御伽話に頼れば、世界には争いは生まれるはずもない。なんせ、人には必ず、守護霊が教育すると言う。しかし、邪悪なる因縁霊や悪魔的要素が、人を惑わすと。

いやいや、人が神と親しむ時代の太古には、守護霊もいないし、因縁霊や悪霊も居なかった。

霊界の増大は、人の私欲、智慧、人の産み出す想念に伴っている。

仮に守護霊が太古から居れば、教育宜しく、戦争なんて起きるわけがない。

人と人との争いは皆無である。

例え農作物による、指導者と従事者との身分差などあろうとも、正しき聖霊や守護霊が憑いておれば、人の役割の尊さは変わらなかった筈。

善も悪も守護霊も邪悪霊も人がその歴史と造化の最中にあらわれた。

まあ、なんにせよ、人の歴史とは、互いに欲しがり、奪い合い、大いに戦争をして、互いに殺し合ったのが真実である。

都合勝手な人の欲望こそが、あらゆる思凝霊(善霊悪霊)を膿んだに過ぎない。

道を修める人は、守護霊や云々に拘り、関わるべきではない。また、存在を否定すべきでもない。

道とは、克己復礼。内省。誠。潜修あるのみ。

自ら歩み、自ら修める。修身斉家治国平天下。


さて、神は外にも内にも居られるが、現代人は、外的要素をもってのみ、神へと交わろうとされる。

パワースポット、神社仏閣などなど、自然や、樹木、磐座などの、外的要素に概念を向ける人がほとんどである。

故に、人と神との垣根を自らがつくる。

吾が内なる神を覚神せずして、外の神の何が判るのであろうか。

神は神をもってしか通ぜず。


内流には、みなもとがある。

人には御魂が備わり、それは、親神に繋がり、授かれた、内的な吾が主神でもある。

水に源あり、木に根本あり。

これを水源木本と呼ぶ。

人は親に基づき、親は先祖に基づき、先祖は神に基づく。

内流的には、「人は自然に基づき、自然は神に基づき、神は宇宙に基づく」なり。

全ての人は神から天授の玉(魂)を備えられておられる。

故に、自己の本源(御魂の素性)を知りたいと思考するのであれば、自らの源を探求、探索せねばならない。

しかし、今の人は、娯楽に溺れ、地位や名誉に囚われ、文明社会に犯され、自己の天命を知ろうともせず、また、悟れず、自己の素性を覚れず、ただ、環境に流され、また、思想の渦に囚われて、神たる人の本質を見失っておられる。

まして、我自身こそが、神の魂そのものである事を知らない。

なんせ、他人を見れば、神の様な人は一人もいないからである。

他人の中の御魂を見出す事もできない。

そもそも、神は悪も善も内包する。

神は全てを含む虚包なり。

善悪を兼ね備え、括り、超越する神を直覚で信じる事が出来る、人が少ないのである。

他人や、親や、宗教により、教えられた神を神とするが、人間であります。

神は観念では無い。

神は人の思考を超えた存在。


さて、簡単に言えば、内流とは、神との対話である。

神とは人にあらざる。

故に、会話は成立しない。

何をもって、神と対話するのであろうか。

真神は語らず。示さず。感合(和)するのみ。

神は炁。

神は光。

人の魂もまた、光。

神は闇。

人の魂もまた、闇。


相対する世界の垣根を超えた世界にこそ、素(す)あり。素は、糸あり。素から糸をほぐせば主。

主は、意図なき、我無き、産土心なり。

神と対話とは、魂と魂との響き合い。

言語に頼らず、鳴り響き共鳴、共感して、明らかとなり、覚る。

人間は、人と同様に、神との会話や対話を求め、それを概念に思凝り、観念するが故に、誤るのである。

草や木と動物と会話するに、言語は必要ない。

ただ、スピリットあるのみ。

「内流をより、多く受けるには、どうしたらよいでしょうか。」

「小我を出さぬようにして、気持ちをつねに、神様の方へ向けている事が第一です。」

「向けようと思っても、向かない気持ちの時がありますが。」

「自分で自分を引きずる努力が必要です。どんな場合でも、神様へ向かうということは、一番大事な事に決まっているのですから。」

無邪気なる 子供ごころに 神様と おすがり申すが 宜しかりけり。

み光に 会うたびごとに 内的の 視力いよいよ 強まりてゆく。

内的の 視力すすめば おのづから ものの判断 かわりてぞくる。

神は空。

神は虚。

神は霊。

自我(我よし)を無くし、小我(正義)を無くし、大我(調和)へ至り、虚(霊)を悟り、真炁來復して、無我(虚空)へ至れば、神と日竎(ひび)き合うなり。

道を修めるには、坐よりはじめるが適格です。

そして、虚空に至る道こそが先天坐法なり。

神は万物普遍の霊。

炁とは、唯一、虚霊のみ、感合するなり。

内流も外流も和合して、はじめて、神人合一となるのです。





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孚聖訓、劫道。

2023-03-03 20:33:00 | 道院
沙宝。

雲宝。

孚聖、妙山より、命を奉じて来たる。

紛紜たる、世劫。

道は昌(さか)んに、なり難し。

黒闇の夜長く。

夢も亦、長し。

首を回(めぐ)らせば、白雲多く変幻す。

田は滄海に帰し新桑に変ず。

世上の劫は已むことなく、人心は陥溺して、これを救うにも救うことが出来ず、これを消すにも消す事ができない。

ここで劫を消したとしても、あそこで、劫が大きくなり、絶えず、劫を消していっても、劫は、益々大きくなっていくのは、どうしてであろうか。

どうして、科学が昌明(さかん)になれば、なる程、災劫が益々荒れ狂ってくるのであろうか。

たとえ、多くの災劫の発生を観て見ても、人事で想像が出来ない程、悲惨である。

戦禍や、水害火災、震災、空の難、海の難などが断(た)えず、発生しており、また、各種の癌性の腫瘍、新型コロナウィルス、エイズ、エボラウィルスの如き難病奇病などは、直接にせよ、間接にせよ、科学によってもたらされたもので、医薬といえども、これが為に効力を失い、人事では如何ともし難いし、神事でも、また、徒(いたずら)に期待に答えることは、出来ないと叫ぶだけである。

しかし、為すことの出来ない者は、これを捨ておいて、何もしないようである。

これは、吾が修人の当然あるべき、考え方では無いのである。

修人なる老祖の弟子は、皆、四大宏願(救済、上乗、真諦、功候)を抱いて来た者であり、為すべき事はもとより、心力を尽くしてこれを為すべきであり、為すことの出来ないようなものも、依然、その心智を尽くして、試みにこれを為すべきであって、全ての一切の如何せんともし難いと言うことで無ければ、決して中途で、辞めたり、することはしないのである。

道を打ち立て慈を宏めるところの精神もまた、当然こうあるべきである。

大道が世に行われるようになって、百五十年近くになる。

その間に受けた所の艱難困苦及び、種々の障害はどれだけあったか、わからない。

しかし、聖神仙仏の劫運を消弭しようとする、大決心は従来の、未だかつて少しも、その志が退いたことがない。

それどころか、劫が酷ければ、酷いほど、益々これらを消弭することに努めるので、道が一尺高くなってくれば、魔もこれによって一丈に成長するという節は、根拠の無い、とりとめの無い事であると見なすことが出来る。

ただ、吾が修人が、誠心誠意力を尽くして、多くの人の志を一つにして、一致団結し、全力をもって劫魔に挑戦し、多くの人と心を一つにすれば、至誠は、終わりには必ず、災劫をことごとく消して、道慈の光は昌(さか)んとなり、太平の世界を見る事が出来る。

しかし、これを言うことは難しくないが、これを行う事は難しいのである。

各方は、共にこの任を、重くして巨大な任務を担(にぎな)うのである。

それ、共に勉めよ。






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