道には、声も形も無いのに、どうして、その中から、喜びを見出すことが出来ようか。
また、道に対して、色々な説明があるが、いずれも、皆、想像も及ばないものであって、どうしてそれを楽しみとすることが出来るだろうか。
このように思い込んでいる人々は、少なくない。
吾が道の修方(老祖の弟子)にとっては、むしろ、声も形も無く、限定されてないからこそ、その喜びと楽しみも、極まる所が無いのである。
今は、この宇宙間に曾つてない一大危機に遭遇しようとしている。
人々は、日常茶飯事において、災難が押し寄せてくれば、それを感じ取る事ができるし、その災難による苦痛がどんなものであるかは、今更、言うまでもないことである。
道(坐)を行なっている修方は自らを考えてみよう。
諸子(老祖の弟子)が道に入ってから今日に到るまで、その志が順調に進んだであろうか。
また、その心身が不安で落ち着かないと言うことがあったであろうか。
諸子は、現在、一般の人と異なり、その心が安定して、悠悠自適の境地に恵まれていることを、悟るべきである。
このような、快適の境地を味わうのと、単に人生の苦しみに耐え、誰からも同調されずにいる世間の人々と比べて見れば、その差は正に天と地ほどの違いがある。
どうして、このような、差が出てくるのであろうか。
たとえ、道に声や形が無くても、心身の苦痛に直面した時、そこに、道があれば、それが精神的支柱となり、その苦痛が除かれるか、又は緩和され楽になるのである。
そこで、諸子が先ず自分の帰依する処を知り、その後の心に向かうところを正しくすれば、心身の快適が求め得られる。
吾はこのような、求道心を喜ぶのである。
勿論、中には世俗の七情六慾に引きずられて、にわかに浮世の障害を乗り越える事が容易で無い者もいるであろう。
しかし、諸子がもし、欲を少なくし心を清める事に、あらん限りの努力をするならば、今後道を求めて行く過程において、自然と測り知れないものを得られるのである。
吾が道が世の中の人々を救済するのに、人々が俗世間との交わりを絶って、始めて道を語ることが出来ると、するものでは決して無い。
修道する者は、今居る処が即ち道のあるところであり、自分自身を修めるところによって、道を求めて行けば、その中に道は必ず発見出来るのである。
このようにすれば、その身、それなりに道が宿り、道はそれなりに、全てのものを包合するのである。
そうすれは、人間世界に在るがままの身で、道を体得され、また、人間世界に在るがままの、得道の身で世の中を救う事が出来るのである。
そこで知らなければならない事は、自分自身を錬磨し、道を明らかにし、世の中の人を救おうとすれば、いたずらにこころを高遠な事に馳せらすことなく、最も身近な日常の言行を慎むだけで、充分な事である。
現代人は、ややもすれば、道を掴みどころの無いものと決め付け、世の中の実情に合わないものとして、嘲笑し、さもなければ、神話や怪談のたぐい、又間に見えぬ、奥深い幽玄なものとして考えている。
これらは、いずれにも、自分の身をもって道を行いつつも、その真実を体得しようとせず、単に自分の欲望を満足させようと図っており、それらは、功利主義で誤った見解に陥っているのである。
諸子が歴史について見れば、すぐ判るように、眼前の功利主義のみに、目が奪われて、算盤を弾くような事は、従来の道を修めるものの眼中には、無かったことである。
たとえば、事実上、利益を得て、それが道に帰因するとしても、これらの利益は副産物であり、枝葉末節に過ぎないのである。
しかしながら、これを長い目で見れば、修道へのたゆまぬ努力の結果による、その報いは、ある一時の利益による報いよりも遥かに大きいのである。
これらの事は決して例外では無いのである。
末世における道の衰退以来、目に余る人心の頽廃に対応する治療薬として、仁義の教えが盛んになると、その賛否をめぐって論争も激しくなる。
そこで本来の渾厚の気(人間が本来持っている穢れる以前の良質の気)は日に日に薄れ、人心は生まれつき持っていた霊性を失い、漸次大勢は、下流へと向かう一方である。
時代が更に降って、今日に及ぶと、人心は益々低俗卑猥となり、たとえ、第一義的な仁義の道を説いても、耳を貸す人はいないのである。
それなのに、形もなく、声もなく、名もなく、相もない、大道を人々に知らせる事は難しいのである。
更に、この大道によって、自らを修練し、優れた人材となり、世の中をよくするということは、さらに難しいのである。
しかしながら、吾が道の修方諸子は、幸いにも、既にこの道を人生における、一大目標とし、大原則としているのであるから、いつかは、諸子の影響如何によって、めざめて、道を求めるようになるのである。
ただ、ただ、汚れた世俗は、人に重圧を加えている。
修道者として、これをどのように突破するか。
それは突破するのではなく、破られ無いようにし、その影響をいかにして、受けないようにするかが、最も大事である。
これこそが汚れた世界にいながら、それに染まらず、清浄を保つことであり、それは、いわゆる"世俗に居て世俗を離れる"ということで、これこそが、大道の妙諦である。
諸子が大道の妙諦を得たいと思うならば、先ず心に主宰を確立させることが最も必要である。
さらに、外界からの誘惑によって迷わされないようにすれば、自分の心の安定を保つ事が出来るのである。
これは、静坐の修養の如何に掛かっており、要するに形の静坐だけでなく、日常生活の中で動いている時も、片時たりとも、これを揺るがせにすることはしないのである。
そこで、平静になれば、心は自然に安定する。
心の安定が出来れば、吾が身には、常に主宰が存在し、清明の気が充実して来るのである。
そうすれば、吾が身がわざわざ、世俗を離れなくとも、居ながらにして自然に凡俗を超越することが出来る。
このような、功用(はたらき)を修得して、始めて、日常の災難から、宇宙の大危機まで、救う事が出来るのである。
これが修得者として、自然に発揮することのできる第一等の能力である。
人間の意念が働く以上、偏向からたやすく、免れる事は出来ないのである。
自分の意識に偏りがあっても、その行為が必ずしも、不正とは限らないが、多くの者は性急に功名を求め、到る処で自分で作った壁にぶつかっている。
それくらいの誤りはまあ、小さい方であるが、遂には、世界を救済しようとする、道心までもが、挫折することになる。
自分の意識に偏りがあれば、ある局面に対して順調に行くが、他の局面に変われば、始めからか、または、途中から壁にぶつかってしまうことになる。
これは、心の偏りによって人間社会において、融和出来ないからである。
このように、融和しなければ、大道の本体を失うことはことになり、則ち道の生成化育を失うことになるのである。
だからと言って、いたずらに低級な俗世間の事に没頭し、これと妥協するようなことがあってはならないのである。
吾がこのように、語るのは、今日の社会全般にわたる、弊害として、人々が私利私欲のみを貪り、個人の享楽に走り、国家社会や公のことなど、眼中に無いからである。
道理を無視して、私情に左右されれば、心は一方に偏り、必ず論争を引き起こし、そこで、仲間や党派を作って争い、それこそ社会不安や戦乱が止むことがないのは、実に此処に原因があるのである。
このようになってしまった世界は、重病人と同じで。その病巣の奥まで、治療する手段は一つしかない。
即ち、理を明らかにし、教えを盛んにして、七情六欲に偏る考えを抑制することである。
しかしながら、これを治療しようとしても、自分が持ち続けてきた誤った観念を改めなければ、どうして人を救うことが出来るであろうか。
吾が嘱望する、修道の人々よ。
重病であるこの世界の病源を探究し、その対処療法を施す為に深く悟り、その処方箋もって、先ず、自分自身を治療し、その後で、他人の治療に応用すれば、世界の重病も癒すことが出来るであろう。
諸子がこのように心を存して、道に邁進すれば、わが、道の身をたて世を化するところの、日も遠からず来るのである。