令和なる五六七の年、辰の六年は能登の地震に始まり、世界の主な国々の頭の選挙もありて、旧き、世の体制が、崩れて、新しき世の芽がふく年でありたぞよ。



明けて巳の年は、巳は身であり、実であり、霊(火)が体(水)と現れる年であり、五六七の世を開く為に、神界で成りた、事が一つ一つ、世の型に現れて来る事であるぞよ。
七の数は、変転奇象の意でありて、世の浄めの為に、これまでに無く、様々の火水からみての、奇縁が起こりても、神を信じる者は狼狽えず、騒がず、その時々の我が身魂の使命を果たし、ゆく事であるぞ。
我が使命が判らぬと申す者は、少しでも利己主義(われよし)の思いを改めて、人の幸を祈りつつ、我が身に授けられたる、職業にまず、一心に、務める事であるぞ。
その事によりて、我が身の一人では、生きられぬ現(こ)の世である事が、段々と判り、人の倖せ、そして世界平和を祈らねば我が身も立たぬ方が判りて来るぞよ。
人には判らぬが、神界にては、この令和(霊和)の五年六年七年、卯辰巳の年で、神人和樂の五六七(みろく、火水土)世を開く四九三が成り、八年からは、一段と、世の因縁、汚れ、穢れの浄化激しくなり、それを共に神界の五六七の四九三をこの世に写す為、神々の縁ある者をして、神業も忙しくなるぞよ。
つながり、続く三千年の神業であれど、これからが、真、神世復活の始めとなるこの巳の年であるぞよ。

三輪の神山に、天照国照日の出の神を始め、世の元からの神々龍神々集えて、これからの世の事を議(はか)るぞよ。
艮(東北)に浄めの火の手上がり、目出度くも厳しい事となるぞよ。(鬼雷注、大船渡の山火事を指すのか。正し、この神示は、一月神示とあるが、拝写したのは、令和七年三月九日。)
巳は、神の御現れのなるから、神々には結構でありても、神の為す浄化は、人民には災となりて、困った事ともなるが、人民の積み重ねて来た、汚れ穢れの浄化であるから、それを越さねば、人民に神徳の光りとどかぬのであるぞ。
扨て、身一つにして、面四ツある、九州は日本の大事な南西(ひつじざる、坤)の地場であり、その要の地は島原の雲仙であり、出口王仁三郎殿の有田の五六七歌碑も、南島原の故、菅公義殿の開きし、錦の宮も、今日、九州における立て直しの神業の種まきであり、先駆けでありたぞよ。
雲仙や、五六七歌碑の神気発動によりて、肥(火)国、熊本山鹿の不動岩に秘めてありた、五六七世開きの神業が起こるから、大望の事でありて、神が図り、因縁の場に蒔いておきた、石(意志)の種が、芽をふきて、御用に立つ因縁の身魂の者が、現れ世の立直しの御用に立つのであるぞ。
大望の事であるぞよ。
世界の国々も、日本の国も利己主義(われよし)の強い者勝ちの、今のやり方では、通れぬ世になりて、つつみ隠しの出来ぬ水晶の世であるから、悪事を為さぬよう、皆が助けあう精神になりて、歩み寄らねば先行き出来ぬようになるから、亦、食物も不足し、思いがけぬ病も起こり、金力武力で世界が我が自在になると、思う様な、これまでのやり方では、通らず、我が我がと、通せば、末は共倒れとなるから、世界の国々も人民も、自惚れや意地張りは、禁物であるぞよ。
先の大戦で負けはし、白人の植民地支配のアジアの国々を解放した日本の国が、再び世界に頭角を現し、白人が自在にせんとするのを防げぬよう、一寸法師のような、小国の日本が、世界相手に戦争をした愚かな人民のじゃと、みずから思わせるような自虐の念にとらわれた、自身も誇りも失い、金の力でどっちでも向く日本人にする為、連合国は日本から戦後教育をいたして、性根ぬきの日本人としようとしたのであるぞ。
早く日本人は、その事に気づき、目を醒まさねば、ならぬぞよ。
この地球に大陸を生成する時には、六大州の
元の型となし、人間をこの地球に住まわせ、石器縄文の時代から日本人には、五十音の言霊を授け、天地神人万物調和の平和な世を開かせ、その末には、世界平和の要の国と為さん神界は図ったのであるが、外国と接する長い年月の間に、体主霊従の文明に酔いしれ最初の神命を忘れておるが、これより、本来の使命に立ち直り、霊主体従(ひのもと)の国に立ち直り、世界に大和なる平和の大事を示さねばならぬ時となったのであるぞ。
猿蟹合戦も日の本経済の発展のみに、走って来た日本人が、神々の助けにより、本来の神国日本人に、立ち返る事を教えているのであり、真に世界平和の要となる道へ、一歩踏み出さねばならぬ、この年であるぞ。
如何なる事あろうとも、日本から戦を犯してはならぬぞ。
日本から戦を起こせば、日本の負けとなるのじゃぞ。
龍宮の守り忘れるなよ。
時がたち、衰退するアメリカを力ずけ、共に力を合わせて世界平和の道を開くのじゃ。
その時には龍宮が金銀財宝に、いや勝る御宝海の底から引き上げて、世界平和の道を守るぞよ。
言霊神也 ン。
令和七年三月九日
天橋道士龍華斎修聖拝写。