玄徳道

道を語るブログです。

コメント道

2012-05-31 22:36:30 | コメント道
自己の宇宙をより燃焼し爆発させる。人は、誕生以来、小天地であります。
人間は愛する人に文を書き、自己を表現します。憎い相手にも文を書くこともあるでしょう。それぞれ感情を発露させます。

始めに言葉ありき。自己のその時、その時の道を表現し書くということは、新たな自己を知る原動力ともなるのです。
志(こころざし)は、詩です。詩とは自己の宇宙を表現する言霊です。イスラムの聖典コーランがアラーの賜物と言われるゆえんはその詩的な表現にもよります。

最初この玄徳道のブログに来られた方は、36IPでした。道院紅卍字会に老祖が降臨された時の信者も36人でした。これは、ただの偶然です。正道に不思議はありません。しかし、数字が示す偶然を嬉しく思いました。

もしかしたら機縁ある人同士が自分の宇宙を顕わしたら、お互いに感化し、上乗し高めあうのではと思います。

私もスピリチュアル一位のブログに参加したことがあります。その教祖とは犬猿の仲になりましたが(笑)。しかし、書き込むにもいろいろ調べたり学びになるのも真実です。

ここで、皆さまにお願いです。コメ欄に参加していただきたいと思います。その時の題名など関係無いコメントでもかまいません。自己の宇宙を表現する。自己の道をあらわす、事が課題となります。私は批評しません。同じ立場として参加するかもしれません。ケンカや悪口は、しないでほしいです。己を高めあうことが主題です。道は、家庭の事、仕事も学校も含みます。

まあ私のブログは人気がありませんので参加する人は少ないと思いますが、勇気を以ってどうか参加して下さいませ。

基本的にコメは消去しません。お下劣過ぎるのであれば考えます。

「万有に通ずる真(まこと)の神力は自信の光に如く者は無し。」

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潜修道

2012-05-30 03:38:58 | 地道
陰徳あれば陽報あり。道を歩む人は自己を誇ることを戒めます。驕れば滅びるのが天の摂理だと知るからです。
何故、潜(ひそか)に道を修めることが重要なのでしょうか。人には自己愛があります。真の自分自身を愛することは素晴らしいことです。それは内在神を大切にする意味であります。
しかし、エゴの自己愛とは、他人から愛されたい、良く見られたい、尊敬されたい等欲望がからみます。幕末の西郷南州(隆盛)さんは「己を愛することが善からぬことの始まりなり。」と申されているようですがエゴの自己愛の事を述べられています。
人は他人が見ている所では、偽善心を発揮し、善行を盛んにするようです。それが上司や教祖様であればよく見てもらおうとさらに偽善心を発揮します。ましてや自分が好きな人が見ていれば尚のことです。職場とかに要領がいい人がいると思います。
だけど、他人が見ていない所となると、怠けたり、スケベな事を考えたり、惰性で働くのであれば、たとえ他人が見ているところでよく働いても陰徳になりません。自己の心を偽っているだけです。ここが聖人、君子と小人との差であります。小人は、人の見えるところでよく働き、聖人は人の見えないところでよく働きます。

だからこそ君子はその独りを慎むのです。聖人はその見えざる所を修養の要(かなめ)にしているのです。
最初からの聖人はいやしません。自己の道を歩み研鑽し、他人が見ていないところで必死に努力をして道を修め、聖人と成るのです。

最近の教祖様は、どちらさんも自分を誇ります。霊的世界の前世も誇りますね。自分がお釈迦様の弟子であったとか聖徳太子だとか、ゾロアスター教の教祖だったとか、ダビデの王とか、おまけにミカエルだのスサノオだの神様まで出てきます。
道を歩む人は、このような事を誇り騙る道理はありません。

誰も知られずに道を歩み修める事を「潜修」と申します。誰に褒められることも望まず黙々と道を修めるのです。

「道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。この故に君子その見ざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるはなく、微かなるより顕なるはなし、この故に君子その独りを慎むなり。」

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天目への道

2012-05-28 21:25:16 | 考察
神様の姿が観える霊能者がおられたら、たいていのオカルト好きは驚き尊敬するのかもしれません。人が観えない世界を見て、過去を当てたり、前世や未来を予測したりされたら、驚嘆して、敬意の目で見てしまいますね。中にはこいつアホちゃうかと言う人もいますが。
神様に姿などあるのでしょうか。私の師、至聖先天老祖は「宇宙根源の炁であるので容(かたち)は無い」とされています。
無い姿が観えるのは想念の世界、幽界、霊界からの能力を得る人が観えるのかもしれません。

あるネット教祖は、人形で観える神の存在はレベルが低く、恒星や惑星形象で観えるのがレベルが高いとも申されているようです。
神の善悪を判定する為に、審神(さにわ)と言う方法がありますが、これは、あくまでも学問が主体で、理(ことわり)を主とするのが正道です。今の霊能者や教祖様の多くは自分の体験で判断されるようです。ある教祖様は最高の神様の気を知っているので、低い気は、即座に解かるとか言われています。だけど最高の気って何なのでしょうか。神様に最高とか最低とかランクを作っているのは人間様が勝手にしているだけなのです。

幽界の存在は、人を特別扱いさせ、教祖を別格にするようです。高次元の神が恒星のようだと意識すれば太陽で顕われます。気を意識する教祖にはその方が気に入る氣を出します。つまるところ、神様の存在が観える時点で、憑依されているだけです。

神様は、観える存在ではありません。修道を歩み、坐により開く天目はありのままに真実を見る目です。その働き造化が観えるのです。神社で神も観えません。人も動物形象で観えません。神社を見れば運化の働きを見、人を見れば仁の道理を見るのです。

霊視とはあくまでも想念(幽界)のみを見る目です。多くの教祖が予言をしますが外れるのは当然です。そこに未来など無いからです。ここに興味を抱く者は道から離れて行きます。そこに真理は無いからです。

神様が愛ならば、神の目は慈眼です。ここに奇蹟はありません。

「目に見えぬ神の心に通うこそ人の心の誠なりけり。」

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道魔相克 業障

2012-05-27 15:09:47 | 考察
NHKTVで未解決事件簿、オウム真理教が報道されていました。
悲しきかな真面目な純粋な人間が業の渦に巻き込まれていましたね。私が高校の時に家によくオウムのチラシが入っていましたよ。私は、その時、コスモメイト、深見青山さんの本に凝っていました。そのおかげで、出口王仁三郎さんを知り、笹目仙人を知り、根本誠乾さんを知り、道院を知りました。全てはやはり縁です。善因善果、悪因悪果。

しかし、道を歩む人、修める人は体験している筈です。我が道が高まれば、魔も又それ以上高まることを。道を歩む人はのんびりしていそうでも、吾が道に油断は大敵であり、君子はその独りを慎むのです。修道の極意はここにあります。私も肝に銘じなければなりません。

道と魔は、常に切磋琢磨であります。ここに他人を挟みません。あくまでも内在神と人我(欲心)との凌ぎ合いです。

ここに霊や他人等を挟むと道から離れます。
人を救い導くために、道を興し、教を興す人がいます。最初の発願は純粋であったとしても、段々と初めの頃と感じが変わる、教団は多い様です。人間はお金と人間関係(色欲、好悪)名誉が関わると、悟りを開いた方でも簡単に道から反れます。ある教祖は本を一冊しか出さないと言っても気がつけば、どんどん本を出しています。ある教祖は宗教団体にしないと言ってもお金の為に宗教法人を申請します。

面白いのは道魔争うが如く他人を批判することです。
伊勢白山道リー○ン氏はある裁判沙汰が多い新興教団の教祖を海老の神霊が憑いているだの、最近では地獄の黒邪霊等申すようです。
ワールドメイト深見○州氏はあるネット教祖を金毛九尾だと申します。
信者同士は、お互いに、やれ、蛇ついているだの狐が憑いているだの申し合っているのかもしれません。

二人の教祖は信者からすれば神の様な人なのでしょう。神の様な感性があれば人を動物霊に観える道理は、御座いません。神様は人を慈眼で観ておられるのです。人が人を動物に観えるのは憑きものによる偏見、邪眼であります。

人は人に思いやりを持つのが仁道です。互いに威嚇しあえばそこに道無く、魂奪、魂喰いの世界が拡がるだけです。
人の上に立つ者は、他人を戒める前に自分を戒め、その意(心)を誠にせねばなりません。

「小人閑居して不善を為す。至らざる所なし。君子を見てのち厭然として、その不善をおおいてその善を著す。人の己を視ること、その肺肝を見るがごとく然り。即ち何の益かあらん。これを内に誠あれば外にあらわれるという。故に君子は必ずその独りを慎むなり。」

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六道輪廻

2012-05-26 21:56:16 | 坐道
人の魂は輪廻に囚われています。何故に輪廻が存在するのでしょうか。
人が死後赴く世界、天国や地獄等の正体は人の心、即ち想念であるといわれています。仏教の六道も同じことでしょう。
人の心には天国、地獄、そして、修羅、餓鬼、畜生全てがあります。
本来、魂が主体であり心がそれに付随するものですが、物質世界に生きる現代の人は心が主体で魂がそれに冒されています。
それが六道輪廻、悲しみの海を漂わねばならぬ人の定めでした。

心を清め、魂に随う。これが永遠なる生命への道、涅槃です。老祖はこの秘を玄関(チャクラ)であると述べられています。
静坐による自己発揚は、額にある上丹田の陽気、即ち火の精気が体の前方(女性は後方)を下降します。すると臍下丹田にある陰気、即ち水の精が上昇し、気が回ります。水火が交われば、水火既済の相と成り、水輪によりラポール(調和)状態となります。坐道の効用は水を化して火と為し、火を化して火を生じます。これを坎離の秘訣と申します。
これにより、不可思議なる各丹田が覚醒、活性され、肉体を巡る生命力の主脈の流れは強化されます。

あくまでも自然のままです。心理的にも肉体的にも強制はありません。

人は道を歩み、自己修練により、低次の自身(心)を凌駕し、高次の自身(魂)を得ることが出来るのであれば、輪廻の悲しみの海を彷徨うことは無くなります。至る先は永遠なる神の魂の世界なのです。

「静坐の正しい方法とはなんであろうか。それは如何なる心理的活動も伴わず、土に刺さった杭の如くに完璧な静寂の中でただ坐ることである。」

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