玄徳道

道を語るブログです。

滅美道。

2022-03-10 19:56:00 | 言霊
やれやれだ。

兵劫は、人類の歴史においては、繰り返される、人の行いの結果なり。

その因果は誰が生んだのであろうか、人が自らの結果に、過ぎない。

人は平和を愛する。されど、自分より、平和で愛されて、親しまれる人を羨む因子が備わっている。

まあ、仕方がない。

そもそも兵劫とは何なのか。自断の滅びの道なり。

自断とは自殺と、同意語であり、自ら、親を殺し、子を殺し、我を殺す道なり。

自断とは、祖を殺し、神をも殺すなり。

なんせ、人は、繋がって生きる。

因果に繋がり、カルマに繋がり、徳に繋がり、人に繋がり、神に繋がっている。

やれやれだ。

そん中で、私は坐を以て道とする。

坐れば、戦争が無くなるのか。

坐れば、人が争い、嫉みを止めるのか。

坐れば、皆が仲良く出来るのか。

否。

それでも、坐をもって、化する道とする。

瞑想では無い。坐である。

瞑想は、我が内に籠る癖あり。

坐は、黙って、ただ坐る。その効果は、いたずらに起きない。

何も臨まず、何も見えず、何も訪れず、ひたすら、直に、神に素直に坐るのみ。

平黙の奏多にそれは突然やって來る。


今の因果がありて、未来に結果とするが因果応報なり。

過去は反省の材料とし、今を道とする。

そして、今、惨禍におられる人には、カンナガラ、たまちはえませ。

ああ、惟神たまちはえませ。

更に、惟神霊幸倍坐世。

かむながらたまちはえませとは、どんな時でも、この言霊を述べれば、たちまちに、神が必ず救ってくださる、不朽の神言。

アメブロの瑞霊に倣いてより。勝手に載せます。

出口王仁三郎聖師による。

つつしみて天津祝詞を宣りつれば忽然としてあらはる女神。

われこそは富士の神山の守護神 木の花姫よとおごさか宣らす。

木の花姫静にわれに宣らすやう 祈る言葉は惟神霊幸倍坐世と。

有り難しかたじけなしと感謝しつ 此の神文をしきりに唱ふ。

今までに此の神文を宣りつれど かく尊しとは思はずにえし。


人には、ありとあらゆる苦難あるけれど、私は、常に、「しせいせんてんろうそ。」「かんながらたまちはえませ。」そして、坐するのみ。それしか出来ないだけの愚か者なり。

ああ、しせいせんてんろうそ、かむながらたまちはえませ。
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日の出の神の道

2020-03-30 20:28:51 | 言霊
日の出の神の神霊の出現は、太古では、天之峰火男神(アメのホホオノカミ)神と成る。大和と認識する時代では、天照太御神(アマラスオホミカミ)として、出現した。

古代、日の出の神の働きは、天皇の働きともされた。

天皇の出現とは、天なる時勢の意識を得る、国の首長を述べるのである。

蓋し、中国の天子思想とは、異なるが五十歩百歩でもある。

もし、天皇に神力の神髄を表せば、世の安寧を得られる。

しかし、時代は移り変わり、世の権限の譲渡があり、国主より、民草へと移行する。

故に、御魂返しの神法が明治から昭和にかけて降されたのである。

御魂返しとは、権力が最高の位地であったのが、神力が最高の、地位に撞くことを述べる。御魂返しの神法に、個人の思想は関わりあいが無い。即ち御魂返しとは、民草が内なる神へと目覚め、神と直接、マグワウことを述べるのである。

扨て、人が内なる神へ目覚める意識への言霊を「はるちうむちつづち。」と述べる。

この言霊は、太陽への顕現化の意霊があり、太陰との相対的意識へと繋がる。

ゆえに、太陽の精氣を月の精氣を喰らう秘法に適用される。

天地の呼吸を調整される神仙より、笹目秀和老人はそれを伝授された。

それが後年、深見青山著「強運」と呼ばれる書物にそれが、書かれていたために、笹目老人は、その著者に対して、天機なる、言霊を漏らしたと怒ったと聞いたことがあるが、真実は如何に。


はるちうむちつづち、なる言霊は、実に、出口日出麿さんによる、著書(実際には手書きのノートであり、その聖筆を大本教団が書籍化された。)信仰覚書に先に書かれている。

はるちうむちつづちの言霊と同じ働きを、もたらす文字がある。面白い。
それは、サムハラと、述べ、人類に於ける不思議な働きにを司る。

サムハラとは、地球創世記に人類を守る守護なる役目を与えられた、金龍王。

それを天の叢雲莖龍王と称される。

古代から、太古に駆ける神代文字には、神界からの勅が存在し、サムハラの文字はそれに当たる。

しかしそれは、欲望を叶える存在では、無い。

人間の欲望がサムハラに求めるは、守護。

しかしサムハラが求めるは、人類の覚明による自立。

神が人に求めるは、ナンセンスであり、文字や言葉、意識を超える世界でもあり、汝の自覚あるのみ。

さても、太陽とは地により(影と成る意)、現れ沈むなり。育み滅ぼす。陰陽ある存在でもある。
砂漠の灼熱、インドの熱帯地方では、太陽とは地獄であり、太陽神よりも、夜の月神が尊ばれることもある。

人は、太陽神とは、絶大な神と想起するが、実に日の出の神とは、苦節の連続である。

出口日出麿さんは、高見元男の時代に、純粋にそれを悟っていた。故に謳った。


日の出の神に奉る歌声。

「みこのかずにはいらずとて 太平洋の一つ島 よもつの島に流されし 那岐那美二神のご総領 あしにまかせてあし舟の 流れ流れて四方の国 世のことごとくを経めぐりて いつかはみよにいづのめの 深きしぐみの玉手箱 あけはなれたる朝ぼらけ 不二のみ山に立つけむり げに日の本の神姿なれ

竜宮の乙姫と 誓ひも深き海の底 底ひも知らぬ皇神の 誓ひも、深き海の底 底ひも知らぬ皇神の情けのむちにうたれつつ 家なき里に帰へりては 心もとぢぬ冬氷 春風吹けよ東風来よと 待ちこがれたるみろくの世 一度に開く白梅の かをり床しき朝かな。


三千歳に咲くてふ桃の今年より
開き初めけむうれしさを 何につつまむからごろも たもとゆたかに舞はむかな 袂ゆたかに舞はむかな。」


兵庫県西宮神社の御祭神は、蛭子は、日留子。即ち日の出の神である。同じ兵庫県の金鳥山中腹にある、保久良神社も祭神は、珍彦こと椎根津彦命、即ち、この神も日の出の神の一柱となるのである。

日の出の神の出現意義とは、民草を我が子の如く救う、稀な弥勒の神なのである。





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神咒道

2014-02-06 16:46:59 | 言霊
咒とは呪であり、まじないの意であります。ハリーポッターの世界では呪文を唱えることにより魔法を使い、空を飛んだり、物を動かしたり、変身したり、攻撃したりします。これはあくまでもファンタジーの物語ですが。

太古の時代、人々が言語を使わずにテレパシーに近い感覚で意志の疎通をしていた時代、咒はありませんでした。ゆえに発声器官が無い草木と意志の疎通を通わせることが可能でした。

言語の発達は人類の進化でもあります。言葉による会話を人類が出来るようになり、物質と精神世界に大いなる進歩を生み出したのです。しかし、それによりテレパシーなどの霊性等は失われていったようです。

人々が呪文を唱えだしたのは人類の文明の発達と共にあります。ある者は権力を欲し、政敵を呪うためにまじないをし、ある者は病気を癒すために、呪文を唱え、また神との意志を通わせようと唱える。咒とは言霊の機能であり、宇宙の働きをその言語に見出し、その効能を引き出しました。

古代インドでは、人々が生命を営むに苛烈であり、土地には瘴気が多く劣悪な環境を克服するために多くの「咒」が生まれ、発達してきました。咒とは言語であるが、人語ではありません。咒とは自然界の言語であり、自然界の言語であると信じ、自然界に内在する神秘の働きを引きだすための媒体であったのです。咒は霊界ともつながります。霊界は元々、存在しなかったのですが人類の想念の発達により霊界は肥大していきました。咒の霊界も相応の関係であり、意志が強ければ強いほど感応があるのです。

孔雀明王の咒が生まれた経緯を見れば、人は孔雀の神秘さに驚嘆したからです。人間は毒を食べたら死にます。しかし、悪食の「孔雀」は毒蛇、毒蜘蛛を食らっても、咀嚼し解毒する。この神秘さを古代のインド人は、孔雀の鳴き声を咒に取り入れ、毒に当たったのであれば、この孔雀の咒を唱え、内臓までも孔雀に変化させ、その効能により解毒し、その験を表しました。また、それに仏性の要素が加わり、解脱を妨げる毒である三毒、「貪る、怒る、愚かしい」という毒も咀嚼し解毒してしまう思想にまで昇華していきました。
この咒を真言とし、仏母大孔雀明王という法身の存在にまで高め、宇宙の原理を明らかにされたのが弘法大師空海であります。インドで発生した呪術(雑密)が遠く離れた、中国で熟成され日本において、宇宙意識である法身、大日如来を明らかにされ、即身成仏の道「密教」が確立されたのは驚天動地としか言いようがありません。現在でも空海の密教、孔雀経法は鎮護国家の大法であるのです。手に印を結び、口で真言を唱え、心に、諸天諸仏を感じて一体となる、仏そのものに成る。この三密こそが真言の真髄であるようです。
しかし仏教の開祖釈尊は咒を否定されたようです。ただし悪咒(人を呪う)は完全に否定されましたが、方便では善呪(人を癒す)は時折、容認されたようです。

咒を真言となし、誠とする。誠とは言葉が成る意である。

咒とは単なる願望成就の代物ではありません。私利私欲で唱えれば、神、宇宙に対して不敬に当たり、その因果は自己に還ります。あくまでも宇宙の言語であり、自然の言語であります。宇宙にある、働きを小宇宙である人がその働きをなすのです。ゆえに心に誠が無ければ、宇宙の調和を乱すだけになるのです。誠は天の道なり、これを「神」にするが人の道なりです。
心中に誠あれば、「誠であれば能(よ)く感じ、感じれば能く運(めぐ)り、運れば能く通じ、通じれば能く化すのである。」

出口日出麿さんが愛用された咒は「はるち うむち つづち」であります。この言霊的意義は生命の躍動に有るでしょう。なぜならば、血液の流れ、生命の流れに繋がるからです。余談ですが、笹目老人が神仙から受け継がれた、太陽の精気、月の精気を食む秘法にもこの秘言が憶測ですが使われているようです。日月とは明。自らを宇宙を明らかにするからです。

日本神道には十言の神咒があります「あまてらすおほみかみ」です。私も良く唱えます。それよりも「しせいせんてんろうそ(至聖先天老祖)」と無意識に無想で唱えることが多いですね。昔、伊勢白山道リーマン氏はこの言葉は他の宗教団体が良く使うので唱えると穢れていると言われるので、リーマン氏が進めるアマテラスオホミカミと言う咒もありとあらゆる、宗教団体が使っていますがどうなのですかと尋ねたら、返答はありませんでしたね。(笑)

ある宗教団体の著書では道院の咒が神霊の許しを得ずに書かれていますが、唱える側に誠が無ければ、主神の霊を穢すことになる事を悟らねばなりません。また、道院の「神化咒」をたかが九頭龍神を動かし、願望成就、病気治しの秘言として使われていますが、お笑い草です。この神化咒は全ての八百萬の金神を総動員する秘法です。心中に誠実を保ち平素に功行ある者が唱え、また唱えられる側も功行の広大なるを認められた者のみが初めて誦されるのです。ゆめゆめ、願望成就のために使われること無かれ。

道院の咒は紅卍字会修方にのみ閲覧が許されておりませんのでここで発表することができないのをお許しください。

元来、言葉は神である。ゆえに、真の予言は聖人のみが発することが可能となる。誠とは言葉が成る意であるからである。近代、預言者として、名高い出口王仁三郎聖師は聖人であったのかもしれない。しかし、神界 龍神界からの憑依による提言も多くあり、聖師の霊界物語は36通りの読み方があるといわれています。近日、大本を紐解こうとし、自分の解釈をこれを予言とするのは予言ではありません。学問的に解釈しているだけのことです。聖人の予言は断言であり無意識であり、短く、必ず起こりうるものです。それは大宇宙の顕現意識が小宇宙たる人にストレートに働くからです。
空海は、予言こそされませんでしたが、インドに発生した咒を自己に受け入れ、受け入れた咒を自己の小宇宙から大宇宙にまで、昇華させた偉大な聖人であります。ゆえに「真言、まこと(誠)」となるのです。
咒は真言であり誠。この真髄は他力によるものではありません。自分自身の神の発露が顕現するということであります。孔雀明王咒を唱えれば、内在神が法身の孔雀明王成り、宇宙である大日如来へと感合するのです。不動明王もしかり、地蔵菩薩も観世音菩薩もしかりです。

咒を神人合一、即身成仏まで高めた解釈をされたのは弘法大師 空海です。しかし、体系が完成された密教は空海以後、高野山には傑人が排出された様子はありません。先人の教えをありがたく学ぶ。そして模倣だけでは空海を超えることは永遠にできません。あくまでも学び、自己の宇宙を体現することが重要であります。いずれにしろ、咒も祝詞も自己の宇宙を爆発させるがごとく、真心こめて真剣に無欲に唱えるべきであると考えるのです。

「神々の神言かしこみ言霊の その活用は歌となりけり。 言霊の天照る国の尊さは 神の御声を居ながらにして聞く。」

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言霊道

2012-07-01 21:01:51 | 言霊
儒教の道徳である、「仁義礼智信」の五常はすべての意源は仁、思いやり、愛と真心から派生します。仁は慈愛であり、義は人を助ける慈愛であり、礼は人を慈愛する形容を示し、智は物事を幸せにする、慈愛から発生する知恵でありますし、最後の信は人が言葉を違えぬよう、真実なる魂の慈愛を発露させる真言でございます。

古今東西に言霊学がありますよね。一音一義説、一音多義説。聖書で初めに言葉がありとも申します。道の大家では大石擬真素美さん。その高弟、水野満年さん。水谷清さん。倉田地久さん。その言霊学の境地は神に通じておられたでしょう。ああ、出口王仁三郎さんもそうですよね。

先人たちの名を挙げましたが私は言霊学の学問を否定するつもりはありませんし、その真奥は神の道でもあると思います。

私が思う言霊とは「内なる神の魂の叫びであり、外なる神の御心を体して発露する言霊です。」

物事を突き詰め真理を明らかにするのは学問の力であります。正しこれにはその人の道縁によるでしょう。
私が太乙北極真経の功徳、玄学、真誠の学を述べようとも、他の道を歩む人には何の感銘も与えませし、感動もしません。これと同じように言霊学の順ずる人も道縁が無ければ感銘を受けません。

しかし、日本は言霊の幸和う国です。「善言美詞を以って言向け和(やわ)す愛と誠の精神」が受け継がれる国であります。言霊学を学ばなくても、自分の言葉と行動が伴うように懸命に努力すれば、言葉は、自分の真心、内在神から発生し、真の言霊を発します。また、神の御心に添うように行動すれば、内なる誠と、天地の気が合気し、言霊を得られます。

現代の時代で言葉は、飾りとなり、心にもない言動を為すようになり、言葉により、人を傷つけ、人を死に追いやることもあるのです。少なくとも、道を歩む者は自分の言葉は、人を幸せにするように使わなくてはなりません。

人を思いやる根源の道は仁道です。人を思いやる真心から出た言葉は根源たる神から出る言葉となります。これが真の言葉、真言であり、真の言霊となり、天地を感化させるのです。

「天地を動かすばかりの言の葉を誠の道を極めてしがな。」


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