やれやれだ。
兵劫は、人類の歴史においては、繰り返される、人の行いの結果なり。
その因果は誰が生んだのであろうか、人が自らの結果に、過ぎない。
人は平和を愛する。されど、自分より、平和で愛されて、親しまれる人を羨む因子が備わっている。
まあ、仕方がない。
そもそも兵劫とは何なのか。自断の滅びの道なり。
自断とは自殺と、同意語であり、自ら、親を殺し、子を殺し、我を殺す道なり。
自断とは、祖を殺し、神をも殺すなり。
なんせ、人は、繋がって生きる。
因果に繋がり、カルマに繋がり、徳に繋がり、人に繋がり、神に繋がっている。
やれやれだ。
そん中で、私は坐を以て道とする。
坐れば、戦争が無くなるのか。
坐れば、人が争い、嫉みを止めるのか。
坐れば、皆が仲良く出来るのか。
否。
それでも、坐をもって、化する道とする。
瞑想では無い。坐である。
瞑想は、我が内に籠る癖あり。
坐は、黙って、ただ坐る。その効果は、いたずらに起きない。
何も臨まず、何も見えず、何も訪れず、ひたすら、直に、神に素直に坐るのみ。
平黙の奏多にそれは突然やって來る。
今の因果がありて、未来に結果とするが因果応報なり。
過去は反省の材料とし、今を道とする。
そして、今、惨禍におられる人には、カンナガラ、たまちはえませ。
ああ、惟神たまちはえませ。
更に、惟神霊幸倍坐世。
かむながらたまちはえませとは、どんな時でも、この言霊を述べれば、たちまちに、神が必ず救ってくださる、不朽の神言。
アメブロの瑞霊に倣いてより。勝手に載せます。
出口王仁三郎聖師による。
つつしみて天津祝詞を宣りつれば忽然としてあらはる女神。
われこそは富士の神山の守護神 木の花姫よとおごさか宣らす。
木の花姫静にわれに宣らすやう 祈る言葉は惟神霊幸倍坐世と。
有り難しかたじけなしと感謝しつ 此の神文をしきりに唱ふ。
今までに此の神文を宣りつれど かく尊しとは思はずにえし。
人には、ありとあらゆる苦難あるけれど、私は、常に、「しせいせんてんろうそ。」「かんながらたまちはえませ。」そして、坐するのみ。それしか出来ないだけの愚か者なり。
ああ、しせいせんてんろうそ、かむながらたまちはえませ。