サラダ記念日にちなんで、のお題ですね。
私は記念日ずきではないのです。
だって、記念日は過去のものだから。
「その日」がどれだけ輝いていたかを思い出して眺めるのはちょっとさみしい。
これから先、どんな素敵なことがあるかわからないのに、過ぎたことを覚え続けるのはちょっと重荷になる。
高校生あたりから、仲良しの友達の誕生日とか、何かすごく楽しいことがあったりしたことをどれだけ正確に覚えているかが友情のバロメーターのようになっていました。
「よく覚えてるね!」というのは「覚えていてくれて、うれしい!ありがとう」と同義であったし、女性特有の共感することと同じくらい心地よい心理でした。
でも、だんだんそれが窮屈に思えてきて、そのうち私はそういう話題になって来たら静かに聞き役に回るようになっていきました。
記念日。読んで字のごとく、心に記される日はたくさんあります。
「その日」ではなくても、「そのとき」に感じた風の強さ、草花のそよぎ、お店の照明の感じ、街で流れるBGM…。なんでもが「そのとき」の感覚を呼び起こすきっかけになりうるのです。
だから覚える必要はない。
とてもとてもうれしかったこと、楽しかったこともいつかは記憶が薄れてしまうかもしれない。
でも、それでもいいや、と思う。
時間だの、時代だのに洗いざらしにされて、それでも忘れずに記憶されていることはなんだろう。
それが私の価値観なのかもしれません。
私は記念日ずきではないのです。
だって、記念日は過去のものだから。
「その日」がどれだけ輝いていたかを思い出して眺めるのはちょっとさみしい。
これから先、どんな素敵なことがあるかわからないのに、過ぎたことを覚え続けるのはちょっと重荷になる。
高校生あたりから、仲良しの友達の誕生日とか、何かすごく楽しいことがあったりしたことをどれだけ正確に覚えているかが友情のバロメーターのようになっていました。
「よく覚えてるね!」というのは「覚えていてくれて、うれしい!ありがとう」と同義であったし、女性特有の共感することと同じくらい心地よい心理でした。
でも、だんだんそれが窮屈に思えてきて、そのうち私はそういう話題になって来たら静かに聞き役に回るようになっていきました。
記念日。読んで字のごとく、心に記される日はたくさんあります。
「その日」ではなくても、「そのとき」に感じた風の強さ、草花のそよぎ、お店の照明の感じ、街で流れるBGM…。なんでもが「そのとき」の感覚を呼び起こすきっかけになりうるのです。
だから覚える必要はない。
とてもとてもうれしかったこと、楽しかったこともいつかは記憶が薄れてしまうかもしれない。
でも、それでもいいや、と思う。
時間だの、時代だのに洗いざらしにされて、それでも忘れずに記憶されていることはなんだろう。
それが私の価値観なのかもしれません。