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平城京 もう一つの1250年祭(光明皇后)
古都奈良。今年(2010年)は平城京遷都1300年祭で大いに賑わっているが、その平城京と大いに関係するある人物の没後1250年祭の年でもある。
その人物とは・・・・「光明皇后」。
聖武天皇の后として、天平時代の政治と文化に大いに影響力を発揮した皇后である。
先日、光明皇后について京都女子大の瀧浪先生の講演を聞く機会が奈良であった。ついでに久々に皇后ゆかりの寺の一つ「新薬師寺」を訪ねた。
東大寺大仏殿
聖武天皇は東大寺の大仏(盧遮那仏)を建立したことで有名だが、それを進言したのが光明皇后とも言われている。
二人は同じ歳で701年生まれ。光明皇后の父親は藤原不比等、聖武天皇の祖父はこれまた藤原不比等。ということは近親婚で、叔母と甥の関係でもある。
藤原氏を祀る春日大社
平城京への遷都は、二人が10歳の時。(覚え方:なんと(710)綺麗な平城京)
首皇子(聖武天皇)は714年、14歳で元服・立太子となり、光明子(光明皇后)は716年皇太子妃となり、18歳で安倍内親王(後の孝謙天皇=女帝)を、27歳で基王(皇子、2歳で死去)を出産し、藤原一族(不比等)の政治基盤を磐石なものにしていく。
そして、724年24歳で聖武天皇が即位すると、光明皇后は29歳で当時の法を犯して民間人として初の皇后に立てられる。
興福寺を望む(奈良県庁屋上より)
二人は不安定な社会を仏教の教えをベースに人心を安定化させようと仏教寺院の普及拡大に取り組み、東大寺の大仏(開眼法会は二人が56歳の時)がその典型例である。
また、病弱な夫の病気回復を祈って、光明皇后は広大な新薬師寺(新は「あたらしい」ではなく、「あらたかな」という意味)を建立したり、市井の民のために興福寺に施薬院・悲田院をおき、五重塔を建てるなど、今日奈良に残存する天平文化の形成に尽力した。
上:聖武天皇の筆跡、下:光明皇后の筆跡
二人の夫婦仲の力関係は、どうであったのか? 直筆のこの文字を見ると推し量ることができるという人もいるが・・・・。
56歳で聖武天皇が没すると、光明皇后はその遺品を東大寺に納め、正倉院御物として当時の生活・文化を垣間見ることができる。皇后は60歳で没。
東京・福岡で沢山の観覧者を集めた阿修羅像(Wikipediaより)
瀧浪先生は、光明皇后が母・橘三千代の供養に建てた興福寺西金堂の阿修羅像は、おそらく2歳で没した「基(もとい)王」(息子)、腹違いの16歳で没した「安積(あさか)親王」、そして安倍内親王(娘、後の孝謙天皇)の3人を彫り込ませたもの、という説。さて、さて、いかがでしょうか?
(左)新薬師寺「金堂」 (右)薬師如来座像と十二神将(Wikipediaより)
塑造の十二神将、その代表格バザラ大将(左)今日 (右)製作時の極彩色を復元
創建時の新薬師寺は、四町四方の境内に七堂伽藍甍をならべ住する僧一千人の巨大寺院であったが、相次ぐ落雷火災等により、現在の新薬師寺は、創建時の食堂を本堂として国宝・薬師如来像、国宝・十二神将が当時の面影を今に伝えている。
間もなく第62回正倉院展が始まる。今年は遷都祭を記念して屈指の名宝の数々が展示される。また、NHKの「大仏開眼」の再放送もあるようだ。楽しみである。
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平城京 もう一つの1250年祭(光明皇后)
古都奈良。今年(2010年)は平城京遷都1300年祭で大いに賑わっているが、その平城京と大いに関係するある人物の没後1250年祭の年でもある。
その人物とは・・・・「光明皇后」。
聖武天皇の后として、天平時代の政治と文化に大いに影響力を発揮した皇后である。
先日、光明皇后について京都女子大の瀧浪先生の講演を聞く機会が奈良であった。ついでに久々に皇后ゆかりの寺の一つ「新薬師寺」を訪ねた。
東大寺大仏殿
聖武天皇は東大寺の大仏(盧遮那仏)を建立したことで有名だが、それを進言したのが光明皇后とも言われている。
二人は同じ歳で701年生まれ。光明皇后の父親は藤原不比等、聖武天皇の祖父はこれまた藤原不比等。ということは近親婚で、叔母と甥の関係でもある。
藤原氏を祀る春日大社
平城京への遷都は、二人が10歳の時。(覚え方:なんと(710)綺麗な平城京)
首皇子(聖武天皇)は714年、14歳で元服・立太子となり、光明子(光明皇后)は716年皇太子妃となり、18歳で安倍内親王(後の孝謙天皇=女帝)を、27歳で基王(皇子、2歳で死去)を出産し、藤原一族(不比等)の政治基盤を磐石なものにしていく。
そして、724年24歳で聖武天皇が即位すると、光明皇后は29歳で当時の法を犯して民間人として初の皇后に立てられる。
興福寺を望む(奈良県庁屋上より)
二人は不安定な社会を仏教の教えをベースに人心を安定化させようと仏教寺院の普及拡大に取り組み、東大寺の大仏(開眼法会は二人が56歳の時)がその典型例である。
また、病弱な夫の病気回復を祈って、光明皇后は広大な新薬師寺(新は「あたらしい」ではなく、「あらたかな」という意味)を建立したり、市井の民のために興福寺に施薬院・悲田院をおき、五重塔を建てるなど、今日奈良に残存する天平文化の形成に尽力した。
上:聖武天皇の筆跡、下:光明皇后の筆跡
二人の夫婦仲の力関係は、どうであったのか? 直筆のこの文字を見ると推し量ることができるという人もいるが・・・・。
56歳で聖武天皇が没すると、光明皇后はその遺品を東大寺に納め、正倉院御物として当時の生活・文化を垣間見ることができる。皇后は60歳で没。
東京・福岡で沢山の観覧者を集めた阿修羅像(Wikipediaより)
瀧浪先生は、光明皇后が母・橘三千代の供養に建てた興福寺西金堂の阿修羅像は、おそらく2歳で没した「基(もとい)王」(息子)、腹違いの16歳で没した「安積(あさか)親王」、そして安倍内親王(娘、後の孝謙天皇)の3人を彫り込ませたもの、という説。さて、さて、いかがでしょうか?
(左)新薬師寺「金堂」 (右)薬師如来座像と十二神将(Wikipediaより)
塑造の十二神将、その代表格バザラ大将(左)今日 (右)製作時の極彩色を復元
創建時の新薬師寺は、四町四方の境内に七堂伽藍甍をならべ住する僧一千人の巨大寺院であったが、相次ぐ落雷火災等により、現在の新薬師寺は、創建時の食堂を本堂として国宝・薬師如来像、国宝・十二神将が当時の面影を今に伝えている。
間もなく第62回正倉院展が始まる。今年は遷都祭を記念して屈指の名宝の数々が展示される。また、NHKの「大仏開眼」の再放送もあるようだ。楽しみである。
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