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必見! オスティア・アンティカ ― ローマ ― 96.05.05
今回のイタリア旅行を締め括るナポリ・ポンペイ見物がバス運転手組合のストで出来なくなった。急遽旅行ガイド本と相談して決めたのが「オスティア遺跡」の見物。情報が少なくどんな所か全く見当がつかないが、何か面白そうだ!。
ローマ・テルミニ駅から地下鉄B線でマグリアーナへ、ここでオスティア・リド線に乗り換えオスティア・アンティカ駅で下車。所要時間は約1時間。
全くの田舎駅、降りる人もなく寂しい限りだが、地図を頼りに駅からまっすぐ伸びる道を歩くこと約5分、遺跡らしき場所に着く。特に入口といった感じのものはなくそのまま古代遺跡の中に迷い込むことになった。案内板も順路表示もなく、ただただ想像を膨らませてこの古代遺跡を自分なりに捉える必要がある。
(左)乗降客も少ないオスティア・アンティカ駅 (右)駅から徒歩5分、いつの間にか古代都市に。
オスティアは、古代ローマ帝国の首都ローマの外港都市として紀元前6世紀から紀元5世紀まで繁栄を続けた町。最盛期には10万人が居住したと言われている。
テヴェレ川の河口、ティレニア海に面した商業港で、必要に応じて上流30kmのローマに物資や人を運んだようだ。発掘面積はローマ帝政期の町の1/3、約34haに及び、公衆浴場10、家屋密集地区162、うち数階建てマンション66、製粉所2、劇場1、大きな独立家屋22、その他多くの倉庫、神殿、飲食店などが陽光を浴びることになった。
かつてローマの外港として栄えたオスティアの町
最初に目にしたのは白と黒のモザイクが敷き詰められた広場。同業組合のフォーラムという名前がついている。ここは古代オスティアの国際商業都市としての性格が色濃く出ている。
かつては中心部に神殿があり、その周りに地中海沿岸諸国の各種業界の代表が駐在事務所を開設していたようだ。白と黒のモザイクで自店の取扱品目等を描き、それが看板の役割を果たしていた。回船問屋の船、升に入った小麦、象牙商の象、決闘用の猛獣供給商人等々、見て回るのが結構面白い。
同業組合のフォーラム(いろんな看板モザイクがあって面白い)
オスティアの劇場は、アウグストゥス帝時代の紀元12年の建造で紀元196年に3500名収容に改造されたという記録がある。
3500人収容の劇場(夏にはオペラやコンサートが演じられる)
レストランと思しき建物は、通りに面してカウンターがあり、背後の柱にはメニューの一種と思われる料理が描かれている。二階建てのようで二階にはバルコニーがあって夕涼みが出来るようだ。
ポンペイにも浴場の前にこんな居酒屋や食堂があったなあ
レストラン近くの通路には、紀元前4世紀の城塞の壁画が展示されている。日本の高松塚古墳の壁画の扱いを思えば、何とも気の毒な扱いである。
元は赤い極彩色の壁画、退色しているが高松塚級
赤煉瓦の肌がむき出しの一際大きな建物は、雑草の茂る広場に面して階段が設けられ、オスティアの公共広場とカピトリウム(神殿)のようだ。古代は全て大理石板の化粧がなされて、階段上の大きな祭室には神々の巨像が立っていたという。
後方は公共広場とカピトリウム(神殿)
沢山あった公共浴場の一つ、ブティコススの公共浴場。その温湯室の2つの大理石の湯舟の間に海神たちを主題にした立派な2000年前の床モザイクが残っている。
見事なモザイクが残ったブティコススの公共浴場
オスティア遺跡の中で、高さの点で特徴のある総合建物がある。「戦車の御者の家」「7賢人の公共浴場」「礼拝堂」等々からなるこの大きな3階建ての建物、全ての用事をこの一区画で済ませられそうである。それにしても2000年前に高層建物があったとは、驚きである。
(左・右)「戦車の御者の家」3階建ての立派な建築
何時間いても興味深く、面白い古代都市巡り。自由にどこにでも入っていけて、自由に触れることが出来る。それだけに古代の匂いがぐっと身近なものに感じられる。空想や想像が止まることなく駆け巡る。
是非、是非お薦めの古代遺跡である。
EDIZIONI STORTI刊、坂本鉄男著「オスティアの遺跡」より
ここオスティアに博物館があることが帰る直前に分かったが、時既に遅し。立ち寄って解説書だけを買ってオスティアを後にする。
(本ブログに書いた解説は、購入したEDIZIONI STORTI刊、坂本鉄男著「オスティアの遺跡」から一部抜粋した)
ローマに戻って、今夕は我々の「最後の晩餐」である。今回の旅の二人の思い出深い料理は期せずして一致し、フィオレンティーナ!と決まった。ホテルで教えて貰った近くのトスカーナ料理店で再び1kgのTボーンステーキにトライする。
最後の晩餐は、トスカーナ料理フィオレンティーナで。
グループ旅行では味わえない、手作りの自分達の時間スケールとペースで旅行した12日間の旅、女房殿にとって忘れられない旅になったようだ。
必見! オスティア・アンティカ ― ローマ ― 96.05.05
今回のイタリア旅行を締め括るナポリ・ポンペイ見物がバス運転手組合のストで出来なくなった。急遽旅行ガイド本と相談して決めたのが「オスティア遺跡」の見物。情報が少なくどんな所か全く見当がつかないが、何か面白そうだ!。
ローマ・テルミニ駅から地下鉄B線でマグリアーナへ、ここでオスティア・リド線に乗り換えオスティア・アンティカ駅で下車。所要時間は約1時間。
全くの田舎駅、降りる人もなく寂しい限りだが、地図を頼りに駅からまっすぐ伸びる道を歩くこと約5分、遺跡らしき場所に着く。特に入口といった感じのものはなくそのまま古代遺跡の中に迷い込むことになった。案内板も順路表示もなく、ただただ想像を膨らませてこの古代遺跡を自分なりに捉える必要がある。
(左)乗降客も少ないオスティア・アンティカ駅 (右)駅から徒歩5分、いつの間にか古代都市に。
オスティアは、古代ローマ帝国の首都ローマの外港都市として紀元前6世紀から紀元5世紀まで繁栄を続けた町。最盛期には10万人が居住したと言われている。
テヴェレ川の河口、ティレニア海に面した商業港で、必要に応じて上流30kmのローマに物資や人を運んだようだ。発掘面積はローマ帝政期の町の1/3、約34haに及び、公衆浴場10、家屋密集地区162、うち数階建てマンション66、製粉所2、劇場1、大きな独立家屋22、その他多くの倉庫、神殿、飲食店などが陽光を浴びることになった。
かつてローマの外港として栄えたオスティアの町
最初に目にしたのは白と黒のモザイクが敷き詰められた広場。同業組合のフォーラムという名前がついている。ここは古代オスティアの国際商業都市としての性格が色濃く出ている。
かつては中心部に神殿があり、その周りに地中海沿岸諸国の各種業界の代表が駐在事務所を開設していたようだ。白と黒のモザイクで自店の取扱品目等を描き、それが看板の役割を果たしていた。回船問屋の船、升に入った小麦、象牙商の象、決闘用の猛獣供給商人等々、見て回るのが結構面白い。
同業組合のフォーラム(いろんな看板モザイクがあって面白い)
オスティアの劇場は、アウグストゥス帝時代の紀元12年の建造で紀元196年に3500名収容に改造されたという記録がある。
3500人収容の劇場(夏にはオペラやコンサートが演じられる)
レストランと思しき建物は、通りに面してカウンターがあり、背後の柱にはメニューの一種と思われる料理が描かれている。二階建てのようで二階にはバルコニーがあって夕涼みが出来るようだ。
ポンペイにも浴場の前にこんな居酒屋や食堂があったなあ
レストラン近くの通路には、紀元前4世紀の城塞の壁画が展示されている。日本の高松塚古墳の壁画の扱いを思えば、何とも気の毒な扱いである。
元は赤い極彩色の壁画、退色しているが高松塚級
赤煉瓦の肌がむき出しの一際大きな建物は、雑草の茂る広場に面して階段が設けられ、オスティアの公共広場とカピトリウム(神殿)のようだ。古代は全て大理石板の化粧がなされて、階段上の大きな祭室には神々の巨像が立っていたという。
後方は公共広場とカピトリウム(神殿)
沢山あった公共浴場の一つ、ブティコススの公共浴場。その温湯室の2つの大理石の湯舟の間に海神たちを主題にした立派な2000年前の床モザイクが残っている。
見事なモザイクが残ったブティコススの公共浴場
オスティア遺跡の中で、高さの点で特徴のある総合建物がある。「戦車の御者の家」「7賢人の公共浴場」「礼拝堂」等々からなるこの大きな3階建ての建物、全ての用事をこの一区画で済ませられそうである。それにしても2000年前に高層建物があったとは、驚きである。
(左・右)「戦車の御者の家」3階建ての立派な建築
何時間いても興味深く、面白い古代都市巡り。自由にどこにでも入っていけて、自由に触れることが出来る。それだけに古代の匂いがぐっと身近なものに感じられる。空想や想像が止まることなく駆け巡る。
是非、是非お薦めの古代遺跡である。
EDIZIONI STORTI刊、坂本鉄男著「オスティアの遺跡」より
ここオスティアに博物館があることが帰る直前に分かったが、時既に遅し。立ち寄って解説書だけを買ってオスティアを後にする。
(本ブログに書いた解説は、購入したEDIZIONI STORTI刊、坂本鉄男著「オスティアの遺跡」から一部抜粋した)
ローマに戻って、今夕は我々の「最後の晩餐」である。今回の旅の二人の思い出深い料理は期せずして一致し、フィオレンティーナ!と決まった。ホテルで教えて貰った近くのトスカーナ料理店で再び1kgのTボーンステーキにトライする。
最後の晩餐は、トスカーナ料理フィオレンティーナで。
グループ旅行では味わえない、手作りの自分達の時間スケールとペースで旅行した12日間の旅、女房殿にとって忘れられない旅になったようだ。