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クレオパトラはいずこ? ―アレキサンドリア― 2008.12.24
今日はクリスマス・イブ。日本にいればジングルベルを耳にする日だが、ここエジプトではそんな雰囲気は全くない。
もっともエジプトの宗教は90%のイスラム教・スンナ派以外に7%のコプト・キリスト教がいるのだが。
← 今日はクリスマス・イブ ホテルのクリスマスデコレーション
アレキサンドリアまでは220kmのバスの旅。
バスに何と観光警察の警官が1名乗り込んで小生の前の席に陣取る。全てのバスに乗るわけではなさそうだが、腰にはピストルが光っている。
カイロの街を出るとそこは一面の砂漠(リビアまで続く西砂漠、正式名はリビア砂漠)。さすがに街道沿いは農地化され緑が多く、ナツメヤシが多く見られる。また金持ちのムスリムが寄進した立派なモスクが散見される。
また、エジプトに行ったら鳩料理ばかりだったという話を聞いたことがあるが、沿道には沢山の食用の鳩小屋を目にする。
(左)カイロ市街を一歩出るとそこは広大なリビア砂漠 (右)あっちこっちに見られる養殖用の鳩小屋
さすがに地中海近く来ると雨に遭遇する。午前中は雨のようだが、幸い移動中だけの雨であった。
アレキサンドリア近郊では石油や天然ガスが出る。貴重な国家の収入源である。ガソリンは30円/リットル程度とか。
← アレキサンドリア近郊の油田・精製(フレアスタッグが見える)
ところで、素朴な疑問だが「エジプト人は何人?」
エジプトツアーも欧州、アジア、アフリカ等々、さまざまに分類されていたりする。ナイルデルタ地方では、シリアやパレスチナ方面の人々を古代エジプト人は「アジア人」と呼んだそうな。
(左)雨上がりのアレキサンドリアの街 (右) 市内電車とパン売りのおじさん
(左・右)午後は晴れ間も出始めたアレキサンドリアの代表的ランドスコープの海岸通り
エジプト第2の都市アレキサンドリアは、BC330年アレキサンダー大王が創った町。
マラリアの流行のため大王は完成を待たずに没っしてしまったが、遺体はミイラとなってアレキサンドリアのどこかにあるはずのようだが、まだ未発見のようである。
大王の死後、部下のプトレマイオスがエジプト王となり、ここに首都が置かれ、1000年もの間地中海世界の文化の中心として栄えた。
プトレマイオス朝そのものは、BC30年クレオパトラⅦ世が自殺するまで続いた。
(左)カーイトゥベイ要塞 (中)要塞に打ち寄せる波
(左)海岸沿いは風も強く荒波の波しぶきが我々を襲う (右)古代世界七不思議の一つ「ファロス灯台」(Wikipediaより)
クレオパトラがいかなる容貌であったか、諸説あるようだが、金髪のギリシャ系で9ケ国語を操る会話の巧みな才女というのが、目下の定説のようだ。
カーイトゥベイ要塞の沖合いの海底に、クレオパトラとアントニウスが過ごしたとされる神殿跡が発見され、遺跡調査が進んでいる。
今日のカーイトゥベイ要塞は強い風のために大きな波しぶきをあげている。この要塞は、14世紀に地震崩壊した古代世界7不思議「ファロス灯台」跡に15世紀に再建されたもの。
(左)アレキサンドリア国立博物館 (右)アレキサンドリア国立博物館入場券
海から上がった数々のお宝がアレキサンドリア国立博物館に展示されている。個人邸が米大使館となり、2003年に博物館としてオープンしている。館内はフラッシュなしでの撮影は許されている。
(左)アレキサンダー大王の像という説も (中)ファラオの像? (右)アクエンアテン王の像
(左・右)海から上がったお宝たち(1)
(左・中・右)海から上がったお宝たち(見たことのある東インド会社の紋章も)
アレキサンドリアでは、古代ローマ図書館のポンペイの柱も見学。400本はあったと言われる図書館の柱が1本残っている。
地元の小学校の遠足で、柱を背景に集合写真を撮っているが我々のカメラにポーズを取ってくれて、肝心の写真屋さんがいらだっている。地下に遺構が残っている。
(左)ポンペイの柱と周辺遺構 (中)400本もあった図書館の柱の1本
(左)地下の遺構 (右)入場チケット
昼食は、海辺のサアド・ザグルール広場に面したCecil Hotelのレストラン。
カラマリ・マアリーというイカの唐揚げ料理。現地ガイドが、我々のグループの隣の席にエジプトの文化大臣と有名な歌手が食事中と言うと、またまた大阪のおばちゃん達、こぞって歌手に握手を求め記念撮影。歌手も人気商売はつらいもの。
(左)ダウンタウンに位置する洒落たセシルホテルのレストラン (右)昼食はカラマリ・マアリー
きっと、帰る頃には歌手の名前は忘れられているでしょうが。気の毒に。
クレオパトラはいずこ? ―アレキサンドリア― 2008.12.24
今日はクリスマス・イブ。日本にいればジングルベルを耳にする日だが、ここエジプトではそんな雰囲気は全くない。
もっともエジプトの宗教は90%のイスラム教・スンナ派以外に7%のコプト・キリスト教がいるのだが。
← 今日はクリスマス・イブ ホテルのクリスマスデコレーション
アレキサンドリアまでは220kmのバスの旅。
バスに何と観光警察の警官が1名乗り込んで小生の前の席に陣取る。全てのバスに乗るわけではなさそうだが、腰にはピストルが光っている。
カイロの街を出るとそこは一面の砂漠(リビアまで続く西砂漠、正式名はリビア砂漠)。さすがに街道沿いは農地化され緑が多く、ナツメヤシが多く見られる。また金持ちのムスリムが寄進した立派なモスクが散見される。
また、エジプトに行ったら鳩料理ばかりだったという話を聞いたことがあるが、沿道には沢山の食用の鳩小屋を目にする。
(左)カイロ市街を一歩出るとそこは広大なリビア砂漠 (右)あっちこっちに見られる養殖用の鳩小屋
さすがに地中海近く来ると雨に遭遇する。午前中は雨のようだが、幸い移動中だけの雨であった。
アレキサンドリア近郊では石油や天然ガスが出る。貴重な国家の収入源である。ガソリンは30円/リットル程度とか。
← アレキサンドリア近郊の油田・精製(フレアスタッグが見える)
ところで、素朴な疑問だが「エジプト人は何人?」
エジプトツアーも欧州、アジア、アフリカ等々、さまざまに分類されていたりする。ナイルデルタ地方では、シリアやパレスチナ方面の人々を古代エジプト人は「アジア人」と呼んだそうな。
(左)雨上がりのアレキサンドリアの街 (右) 市内電車とパン売りのおじさん
(左・右)午後は晴れ間も出始めたアレキサンドリアの代表的ランドスコープの海岸通り
エジプト第2の都市アレキサンドリアは、BC330年アレキサンダー大王が創った町。
マラリアの流行のため大王は完成を待たずに没っしてしまったが、遺体はミイラとなってアレキサンドリアのどこかにあるはずのようだが、まだ未発見のようである。
大王の死後、部下のプトレマイオスがエジプト王となり、ここに首都が置かれ、1000年もの間地中海世界の文化の中心として栄えた。
プトレマイオス朝そのものは、BC30年クレオパトラⅦ世が自殺するまで続いた。
(左)カーイトゥベイ要塞 (中)要塞に打ち寄せる波
(左)海岸沿いは風も強く荒波の波しぶきが我々を襲う (右)古代世界七不思議の一つ「ファロス灯台」(Wikipediaより)
クレオパトラがいかなる容貌であったか、諸説あるようだが、金髪のギリシャ系で9ケ国語を操る会話の巧みな才女というのが、目下の定説のようだ。
カーイトゥベイ要塞の沖合いの海底に、クレオパトラとアントニウスが過ごしたとされる神殿跡が発見され、遺跡調査が進んでいる。
今日のカーイトゥベイ要塞は強い風のために大きな波しぶきをあげている。この要塞は、14世紀に地震崩壊した古代世界7不思議「ファロス灯台」跡に15世紀に再建されたもの。
(左)アレキサンドリア国立博物館 (右)アレキサンドリア国立博物館入場券
海から上がった数々のお宝がアレキサンドリア国立博物館に展示されている。個人邸が米大使館となり、2003年に博物館としてオープンしている。館内はフラッシュなしでの撮影は許されている。
(左)アレキサンダー大王の像という説も (中)ファラオの像? (右)アクエンアテン王の像
(左・右)海から上がったお宝たち(1)
(左・中・右)海から上がったお宝たち(見たことのある東インド会社の紋章も)
アレキサンドリアでは、古代ローマ図書館のポンペイの柱も見学。400本はあったと言われる図書館の柱が1本残っている。
地元の小学校の遠足で、柱を背景に集合写真を撮っているが我々のカメラにポーズを取ってくれて、肝心の写真屋さんがいらだっている。地下に遺構が残っている。
(左)ポンペイの柱と周辺遺構 (中)400本もあった図書館の柱の1本
(左)地下の遺構 (右)入場チケット
昼食は、海辺のサアド・ザグルール広場に面したCecil Hotelのレストラン。
カラマリ・マアリーというイカの唐揚げ料理。現地ガイドが、我々のグループの隣の席にエジプトの文化大臣と有名な歌手が食事中と言うと、またまた大阪のおばちゃん達、こぞって歌手に握手を求め記念撮影。歌手も人気商売はつらいもの。
(左)ダウンタウンに位置する洒落たセシルホテルのレストラン (右)昼食はカラマリ・マアリー
きっと、帰る頃には歌手の名前は忘れられているでしょうが。気の毒に。