散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

昨日記151216水(体調回復 タコ魚の目取り みんぱく講座・絹)

2015年12月18日 12時44分19秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇・晴  最高/最低℃ =15.9 9.3
体調はほぼ回復した。
多分体調不良は、疲労の蓄積で、ここ数日の異常気象の影響も加わっていると思う。
異常気象といえば、数日前は、各地で梅や春に咲く花が咲いたという話題が飛び交い、東京では秋冬のコートを脱いで歩いていた。

朝食後、ランニングの時に気になっていた左足の母指球に出来たタコと魚の目の卵を切り取った。
2-3週間も経つと固く分厚く成長し歩いたり走ったりすると、痛みを覚えるようになる。
いつも数週間毎に、成長すると、電子回路工作用のニッパを使って切り出していて、タコの中心部の底には、魚の目の卵ができている。
十年以上前は、両足に出来ていて、タコの中心には、はっきりと表面まで露出した魚の目もあった。
いつか忘れたが、魚の目にお灸をしたり、何度も線香で魚の目を直接焼いたりすると消えてなくなった。
右足のタコもそのころから自然に消えて、今では左足のタコとその皮膚の奥底に隠れて縮小した魚の目の芯らしきものが残っている。

午後から、副食作りを行い、7食分を完成させた。

その後、急いで昨日記を仕上げ、梅田のグランフロント大阪(北館IFカフェラボ)に向かった。
予約してあった「みんぱく」(国立民族学博物館)の連続講座「世界の天然素材」に参加した。
今回は、「インドの野蚕―その特徴と魅力」というテーマで上羽陽子准教授の講義だった。
講義の内容は濃密であった。

蚕に関する思い出といえば、小学校のころ、小学校近くの文具屋で蚕と桑の葉を売っていて、それを購入してv何度も家で蚕を飼っていたことがあり、一度蛾になってその蛾の卵から、更に2代目の繭を作らせたこともあるが、桑の葉が販売されなくなり、それで終了した

また、40代にアメリカに語学留学した後に民芸雑貨の店をやっていたころ、直接仕入れた中南米の民芸雑貨に交じって、日本の問屋から仕入れたインドシルクの薄いスカーフを販売したこともあった。
日本のシルクと違って糸が太く、まがい物と思っていて、お客さんにもその説明をしていた。
しかし、スカーフにはピュアシルクのタグがあった。

今回の講座を聞いて、絹にはさまざまな種類があり、インドシルクも本物であることを知った。
繭を作る蚕には、家蚕と野蚕があることは知っていたし、日本の野蚕が薄緑色の天蚕で、絹の最高級品であることも知っていた。
今回初めて、インドシルクの繭や天蚕の繭の実物を見て触れた。
また、そうした繭から、作った糸や織物も見た。
絹は、繭から作られるが、繭の機能としてさなぎを守るため、もともと繊維が長く保温力が高く殺菌力もあり防水機能もあり、その性質が、絹に引き継がれているという。
真綿というのは、木綿と思っていたが、絹の綿の事を言うのだと、初めて知った。
すると、フォークソングの「シクラメンの香り」の真綿色した・・のイメージも変わる。
真綿の作り方も説明があり、受講生の中に信州出身の方で経験者もいて、真綿づくりの実際を語っていたし、先生自身も絹関連の様々な作業を国内外で体験しておられるようであった。
講座では、たくさんの話を聞くことができたが、その中には纏向遺跡(奈良の三輪山・大神<おおみわ>神社近くにある、卑弥呼の時代の巨大遺跡で、近くには最初の巨大前方後円墳で卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓もある。)から、絹織物の巾着袋が出土したという話もあり、それが天蚕ということで注目されているという。
この話しは、他国でも絹に関連した出土遺物が出ていて、養蚕の起源が中国からの単独起源ではなく多元的に発生したのではないかということも議論になっているという。

絹織物を作るには、1本の絹糸は7粒前後の繭から糸を挽いて作るといい、講座終了後実演されていた。
絹製品を作るには、桑の栽培から、織物染色まで、セットの技術体系が必要で、古代では高度な最先端産業であったことが理解できた。
絹は、現代でも高級品であるが、古代では、シルクロードの交易でもわかるように、金や銀にも勝る高級品であったことがよく理解できた。
レジュメには、絹に関する様々な文献が記載されていた。

因みに、いつもの、みんぱく講座では見慣れぬビジネスマンらしき人達が立ち見で、先生の話を熱心に聞いていた。
デザイナーや、商社関係の人達かもしれないと思った。
ファッション業界では、従来のシルク織物だけでなく、東南アジアの野蚕も含めた絹織物が注目されていて、すでにトップブランドのファッションにも野蚕が使われているという。
コメント