散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

昨日記130924(火)(食事準備 読書 ブログ書き)

2013年09月25日 12時56分59秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
天気:快晴―mm 32.3  22.2℃ 54% 3.6m東南東

連休や、猛暑・残暑疲れもあり、最近生活習慣が乱れ、朝は何もせずTVを見て過ごすことが多くなった。
更にいつもは、前日に三食分の温野菜をセットしておくのだが、連休の外出の連続で、すっかり日常ペースが狂ってしまった。
事実昨日は、この連休中、講演会や展覧会や墓参と外に出歩き、家事のサイクルが完全に狂い、食材切れや、準備しておくべき三食分の温野菜セットがなかったりして、その補充の買出しと食材の切分やセット作りに追われた。

夜7時前から気分転換にカフェに行き1時間半ほど本を読んだ。
名著といわれるだけあって、なるほどと思わせる新しい視点は参考になった。
常識的と思われていることや、知らない間に刷り込まれたステレオタイプ的見方や決めつけに注意すべきことを悟った。
本は、分厚いので、読了には時間がかかりそうだ。

毎日欠かさず行うことの一つに昨日記の作成があるが、これもずれ込み22日の昨日記を24日の昼前に書き、一昨日のことを24日(昨日)の夜10時過ぎから書き始めたが、話が脱線して、思い出話や余計なことを調子に乗って、思いつくまま書いているうちに、午前一時を回っていた。
しかし、ぐっすり寝たせいか、朝短い昼寝をしたためか寝不足感はない。
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昨日記130923(月)(墓参 思い出 西天満 SD消去トラブル)

2013年09月25日 01時20分42秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
天気:快晴―mm 32.1  22.8℃ 53% 3.2m東

昨日いつものように目覚ましで6時に起きた。
休日だし、寝かったので、二度寝も考えたが、午後から2年ぶりの墓参りを考えたので、定刻どおり起きた。
その時いつも録音している語学講座の録音状態が気になったので見ると、録音されていなかった。
ラジオレコーダーから、メモリのSDカードを取り出し、PCを起動させ、SDカードのファイルを見た。
1週間以上録音はストップしていた。
メモリー容量オーバーなのだ。
以前から何度も同じトラブルを繰り返してきた。

語学講座を録音しているが、この一年録音している内容を一度も聞いたことがない。
朝調理しながら、ラジオをつけっぱなしにして、録音している語学講座を聞き流している。ラジオの指示に従っての練習もしないし、テキストも購入しているが読んでいない。
暇なときにまとめてやろうと思いつつ、実行もせず初めからそのまま何もしない状態なのだ。
従って、録音を再生して復習しないので、録音切れが分からなかったのだ。

以前PCによるSDカードのファイル消去には失敗したが、ラジオレコーダーで消去に成功したので、ファイルを消去して、SDカードの空き容量を増やそうとしたが、うまく行かなかった。(どうやら録音時間と重なっていたためらしいが、それに気付かなかった。)

そのため朝の時間を随分使ったが、結局解決できず、かなり遅い朝食をとった。
その後昼前までTVを見て、何もすることなく過ごし、昨日記を昼頃書いて、昼食の時間に食い込んだ。
更に昼食後も植木に水を遣ったり、お墓までの自転車走行でのルートと、そこから西天満へのルートを地図で調べたため、出発はすっかり遅くなった。
予定の時間から2時間近くずれ込んだ。

3時前に家を出た。
地図上では、墓まで行って、西天満を回り、帰宅すると30km以上ある。
墓には何度も行っているが、いつも道に迷う。
それに、向かい風だと自転車が進まない。
順調に行っても、過去の経験ではへとへとになり、かなり体力を消耗していた。
今回は、PCの地図でチェックしたポイントを、カメラに収めて、そのカメラを持っていった。
スマートフォンがあれば、こんな手間なことは、しなくてすむのにと思った。

幹線道路をかなり速いスピードで走り続けた。
ほとんど迷うこともなく目的地に着いた。
多分時速20kmぐらいで走ったようだ。

前回の墓参は、2年前の10月初旬の母と兄の法事の時で、甥の車で兄の自宅から行った。
墓参の帰り、道に迷った車の車内で思いがけないことが起きた。
非常に印象深い出来事だった。
その時、突然私の携帯がなった。
私は会社では、携帯を頻繁に使用したが、プライベートでは携帯を使う習慣が無いので、携帯に電話が、かかることは年に6回もない。
携帯に出ると、英語で聞き覚えのある声だった。
誰かすぐに分かった。
以前と変わりない声だ。
彼は、すぐに日本に来たいと言う。
また、私に今何をしてどこにいるのか、と聴いてくる。
更に私の携帯の電話番号を教えろとか、自宅の住所や固定電話の電話番号を教えろという。
「携帯の番号は、お前がかけてきたので分かっているだろう、なぜ訊くのだ」とほぼ忘れた英語で問い返した。
その時、その変な質問から、すぐに彼の仕事を直感した。
彼は、私のことを調べていると思った。
彼とは、25年前ぐらいに出会い、もう一人のアメリカ人のルームメイトと彼と3人でよく遊んだ。
3人一緒に居たのは、元アメリカの国務省の管轄下にあった英語学校だ。
更に私がギャラリーをしているとき、私のアメリカ人の友達のこと(彼は中国に行った)を、米国政府機関の関係者だと言った中国政府機関の人がいた。(米中関係者の詳細や身分は、いえませんが。)
ところで、その法事帰りの車中の電話はアメリカで彼と別れて以来始めての会話である。
私の携帯の電話番号は、アメリカ人の友人が教えてくれたという。
(それではなぜ、携帯の電話番号を聞くのかと思ったし、その事を尋ねたが答えはなかった。)
その電話の時、私の乗った甥の車は道を間違えうろうろしていたのだ。
大体私が墓に行くことは、多くて1年に1-2度だ。
その私が、自宅から離れ普段行かないところをうろうろ動いている。
それを、GPSで監視していると想像した。
私の携帯には、GPS機能がついている。
私のアメリカ人の友人から、彼はフランスに居ると聞いていた。
時差の問題もある。
多分日本の夕方は、フランスの夜中ではないかと思った。
その後、電話をしてきた彼とSNSでやり取りするようになった。
彼の行動を見ると、世界各地、特に紛争地帯の隣国に行っていて写真も掲載している。
ビジネスマンというが、行く場所が違うだろうと思っているし、ビジネスらしからぬ手作り感のある東南アジアの展示会風景の写真も見た。(当時その国と隣国は地域紛争を起こし、小規模な武力臭突をし、国際的な小さな話題になっていた。)
その後も、私の直感が当たっていた事実が次々に判明。
例えば、彼はビジネスマンを辞めて、いまの仕事に専念するといったが、突然アフリカに行った。
その後、ケニアでテロによる大惨事が発生している。
何か起きるとつかんでいたのかも知れない。
彼とは今も交流もあり、敵ではなく友人ではあるが、彼の仕事に利用されないか心配で複雑だ。・・・
このように前回の墓参は、他人からはなかなか信じてもらえない、奇妙な話の始まりの日でもあった。
この件は、彼らに翻訳して(彼の身近に、ある人の紹介で翻訳者が出来たが、それ以前から私のブログも読まれていると思っている。)読んでいることを認識して書いている。
(以前にも何度かこのブログで上記のことや関連した話を書いている。)

お墓には、私がこの長屋で一緒に暮らしていた両親と兄が葬られている。
長兄だけは、両親の郷里の瀬戸内の見晴らしのいい墓地に葬られている。
私が乳幼児の頃、父親を残し一家はこの長屋から両親の郷里に疎開した。
当時両親の郷里の技術系の旧制中学に通っていた長兄は私をかわいがってくれたというが、私は2歳以下の時で記憶は何もない。
当時親父は、御堂筋にある銀行の守衛をし、焼夷弾が雨のように降るのを間近で見ていたという。
終戦後少しして母と子は疎開先から大阪に戻ったが、その前に長兄は郷里で病気でなくなった。
夏になると堺の出島海岸に海水浴に行っていたときに、急に発熱しポリオになった。
私には、全く記憶がないが、防波堤の上で急に震えだし、ひどい発熱をし、その後動かなくなり、近くの市立小児センターでポリオと診断されたという。
診療所で治療時に母親が外に出され、私は背中に太い注射針を打たれ、私が大声で泣き叫んでいるのを、たまたま幼馴染の子(彼は今も元気に家業を継いでいる)と一緒に通院していた隣近所のおばちゃんが見たという話も、よく聞かされた。
全身麻痺で、小学校まで後遺症はあったが、うまく克服でき今はその跡形もない。
ただ、兄がスポーツ万能だったが、私は小学生時代はスポーツの落ちこぼれだった。
小学校の低学年のころ、夏になると、父は私に運動させるためか、一家で堺の出島海岸へ海水浴に行くのが定番になっていた。
その度に、漁港の岸壁で私が突然震えだした場所とか、発病の様子と経過とか、よく動けるようになって良かったとかいった話を、繰り返し繰り返し聞かさかされた。
小学生低学年の私には、親の苦労や必死だったことなんか全く分からず、小児麻痺だったことを幼心になんとなく偉かったことのように、運動べたの言い訳として友達に話していたが、今は両親に感謝あるのみだ。
それにしても、今思うと、出島海岸は、親父の郷里の漁港とよく似ていた。

お墓参りのついでに関連した、奇妙な話や、思い出話が長くなった。
今夜はこの夜遅くのPC作業のため、脳が興奮しているので多分寝付けず睡眠不足なるかも。

墓参後、自転車を再び走らせ、西天満に向かった。
最初に予定したルートを見失い、毛馬橋を渡り天神橋筋を南下し、新梅田から西天満に入り、いつものように番画廊から、HOTまでギャラリーを回った。
その後いつものように、天満橋でアイスコーヒーを飲みながら、本を読んだが、疲労のため、すぐに眠気を催したため早々に切り上げ、帰宅した。

地図でルートの走行距離を調べると、トータル30km以上走っている。
その後夜食の準備が出来ておらず、食事に手間取り、追い討ちをかけるように、録音不良の問題処理が待ち構えていた。
最終的には、SDカードのファイルの諸居に成功したが、寝たのは1時過ぎだった。
今日(9/25)も様々な思い出話で脱線し既に午前1時を過ぎている。
3000字余りも書いた、明日も6時に起きて朝食後、ごろ寝して寝不足解消だ。
昨日は、オープニングパーティーに行く予定だったが、食材買出しや食事作りがずれ込み。いかれなかった。
早く規則正しい生活が送れるようにしなければ。
とにかく、午前0時には寝るようにしたいし、時間的には出来るはずだ。

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