先日、ある新聞の人生相談をよんでいたら気分が悪くなった。三十代の息子の
疲れがひどいと心配する母親からの相談だったが、そのなかの”息子は、日曜日
も育児をさせられているようで……”という一節が妙にひっかかった。育児をさせ
られているなんて! だって彼は子供の父親であるのだから、育児は親としての
権利であり義務であるのではないの? なんだか悲しかった。そんなふうに息子
の育児をとらえている母親のいることが。
父親が大黒柱と言われ、一目置かれていたのは遥か昔のこと。現代の中年
の父親たちは家庭に居場所がない。妻には「亭主元気で留守がいい」と言われ、
やがて年をとるにつれて『粗大ごみ』とか『濡れ落ち葉』というニックネームで
呼ばれる。
そして娘からは「お父さんと同じぬり薬はつかいたくな~い」と抗議され、一回
使い切りのぬり薬が製薬会社から発売される。
これは、今まで男性が家庭ときちんと向き合わなかった(向き合えない時代だっ
たのかもしれないが)、あるいは育児に参加しなかった結果ではないだろうか?
昨年出産した友人は、夫の帰りを待って、ふたりで赤ちゃんを入浴させたそう
だ。おしめを取り替える父親、子供の食事の世話をする父親、そういう父親像も
今は珍しくなくなっている。
「夫の参加」をそれほどに勤めていても、ダンナの仕事が忙しく、現実は母子家
庭状態なので、彼女はふたりめは産まないつもりという。
でも夫がもっと育児に時間がとれるならふたりめも考えると言っていた。夫の
育児参加は当たり前と思う妻、時間の許す限り育児に関わる夫。そういう家庭な
らば、娘も父親と同じぬり薬を抵抗なく使うのかもしれない。
若い夫婦の育児観は変わっていく。それなのに、周りの先輩が古い考えのまま
では新しい家庭の形は生まれない。
父親の居場所の復活も困難だ。ならば古典を尊ぶのは文学にまかせて、古典
的育児観はそろそろ脱ぎ捨てたほうがいい。
まあ、家庭以外のほうが居心地がよいというなら話は別だけれども……?