出身高校の同窓会が昨日魚津市内であった。
昼間は世代を越えた形のもので、その日まで同窓会長を務められた経営者氏の講演のあと懇親会という流れ。
18時過ぎからは、私も含む幹事学年である41回卒業生による同級会が、当時の担任の先生方も全員参加という中で催された。
昼間の部はまさに大先輩の皆様が多い場で、いささかの緊張と少しくすぐったいような感覚が混ざり合っていた。
40歳世代である幹事学年は数十名の参加があったが、その周辺の学年からは数えるほどで、幹事役をやってきた人間にとってはこの昼間の全体の同窓会が、いわば年長者をひたすら立てる場ということで最も気を使う時間帯だったろうと思う。
昼間の会が始まる前には地元のケーブルテレビでキャスターをしているM女史に話しかけてみた。
今日は取材とは違うのかと尋ねたところ、今年度から常任幹事になってしまったということであった。
魚津のテレビ局の顔とも言える存在、今後も魚津に根付いて仕事をされていく方だからご指名がかかったのだろう。
もちろん彼女も同じ高校の卒業生であるが、第何回かは聞くことはできなかった。
彼女は講演会のほうの司会も担当していたので、同窓会がすべて終わった後にお疲れ様ともう一度声をかけた。
すると、同じ局でキャスターをしている若手のM君に引き合わせてくれた。
彼は私と同じ大学の出身だそうで、一通りの挨拶をさせてもらった。
思わぬところで思わぬつながりを発見させてもらい、M女史には感謝している。
夜は同級生だけの集まりとなり、参加人数もグッと増えて大変な盛況であった。
特にどう動こうかなどは決めていなかったが、できるだけ多くの人に声をかけるようにはした。
みないい大人になり、このような場ではいたずらに過去を引きずることなく、まさに小異を捨てて大同に付くかのごとく、一人一人がとにかくこの場を楽しんで帰ろうという気持ちが感じられた。
先生方も年を重ねてますます盛んなご様子であり安心をしたところだ。
一方、残念ながらこの会を迎えることができずにこの世を去った人間も7名を数える。
今の私にできることは、一日一日を悔いなく生きることだけだ。
それが天国にいる仲間たちへのせめてもの供養になる。
実質1年ほどもこの日のために準備をしてきた幹事役の人間には心から感謝をしたいと思う。
その中の一人であるK君がいみじくも壇上で言ったことには、幹事をやっていて中には「高校生活が楽しくないまま過ぎた人」も多くいるのだということを勉強したとのことだった。
思ったことを言っただけだよと後で彼は話していたが、こういうことをあえて発言できるところに彼の誠実さと正直さが現れているように感じた。
結局は2次会を経て、陸上部だったI君を連れて知っている飲み屋に足を運んだ。
会が終わってウダウダしているのが嫌いな二人の息がピッタリ合って、その後はママさんの好みもあって「桑田節合戦」と相成った。
サザンのマイナーな歌が受け入れられるのは魚津ではこの店だけだろう。
実家に泊まって、午前中には自宅に向かった。
百人以上の参加者の思いが夏の夜にパッとはじけたような興奮から一夜明け、富山駅のベンチで曇り空を眺めながら、祭りのあとの寂寥感と、この後続いていくそれぞれの日常に思いを馳せた。
もうこれで会えない人間も多いだろう。
しかし、会えなくても仲間は仲間だ。
これだけ多くの仲間に支えられていることを思いながら、これからの日々をただただ誠実に過ごしていきたいと思う。
昼間は世代を越えた形のもので、その日まで同窓会長を務められた経営者氏の講演のあと懇親会という流れ。
18時過ぎからは、私も含む幹事学年である41回卒業生による同級会が、当時の担任の先生方も全員参加という中で催された。
昼間の部はまさに大先輩の皆様が多い場で、いささかの緊張と少しくすぐったいような感覚が混ざり合っていた。
40歳世代である幹事学年は数十名の参加があったが、その周辺の学年からは数えるほどで、幹事役をやってきた人間にとってはこの昼間の全体の同窓会が、いわば年長者をひたすら立てる場ということで最も気を使う時間帯だったろうと思う。
昼間の会が始まる前には地元のケーブルテレビでキャスターをしているM女史に話しかけてみた。
今日は取材とは違うのかと尋ねたところ、今年度から常任幹事になってしまったということであった。
魚津のテレビ局の顔とも言える存在、今後も魚津に根付いて仕事をされていく方だからご指名がかかったのだろう。
もちろん彼女も同じ高校の卒業生であるが、第何回かは聞くことはできなかった。
彼女は講演会のほうの司会も担当していたので、同窓会がすべて終わった後にお疲れ様ともう一度声をかけた。
すると、同じ局でキャスターをしている若手のM君に引き合わせてくれた。
彼は私と同じ大学の出身だそうで、一通りの挨拶をさせてもらった。
思わぬところで思わぬつながりを発見させてもらい、M女史には感謝している。
夜は同級生だけの集まりとなり、参加人数もグッと増えて大変な盛況であった。
特にどう動こうかなどは決めていなかったが、できるだけ多くの人に声をかけるようにはした。
みないい大人になり、このような場ではいたずらに過去を引きずることなく、まさに小異を捨てて大同に付くかのごとく、一人一人がとにかくこの場を楽しんで帰ろうという気持ちが感じられた。
先生方も年を重ねてますます盛んなご様子であり安心をしたところだ。
一方、残念ながらこの会を迎えることができずにこの世を去った人間も7名を数える。
今の私にできることは、一日一日を悔いなく生きることだけだ。
それが天国にいる仲間たちへのせめてもの供養になる。
実質1年ほどもこの日のために準備をしてきた幹事役の人間には心から感謝をしたいと思う。
その中の一人であるK君がいみじくも壇上で言ったことには、幹事をやっていて中には「高校生活が楽しくないまま過ぎた人」も多くいるのだということを勉強したとのことだった。
思ったことを言っただけだよと後で彼は話していたが、こういうことをあえて発言できるところに彼の誠実さと正直さが現れているように感じた。
結局は2次会を経て、陸上部だったI君を連れて知っている飲み屋に足を運んだ。
会が終わってウダウダしているのが嫌いな二人の息がピッタリ合って、その後はママさんの好みもあって「桑田節合戦」と相成った。
サザンのマイナーな歌が受け入れられるのは魚津ではこの店だけだろう。
実家に泊まって、午前中には自宅に向かった。
百人以上の参加者の思いが夏の夜にパッとはじけたような興奮から一夜明け、富山駅のベンチで曇り空を眺めながら、祭りのあとの寂寥感と、この後続いていくそれぞれの日常に思いを馳せた。
もうこれで会えない人間も多いだろう。
しかし、会えなくても仲間は仲間だ。
これだけ多くの仲間に支えられていることを思いながら、これからの日々をただただ誠実に過ごしていきたいと思う。