blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

「オヤジ」のいない日

2010-08-25 22:06:10 | 日記
いつも私に付いてくれている師匠格のベテラン社員が今日は休みで一日いなかった。
二十歳ほども離れているのであえて題名では「オヤジ」と書いた。
事務所のホワイトボードには午前だけ休みとなっていたが、結局は昼休みを過ぎても現れず、外部からの入庫関係は私が一手に引き受けた。
唯一、製造工場との往復はトラックの運転に慣れている社員が行ったが、倉庫での受け渡しに関しては師匠不在の中での役目ということで少しプレッシャーはあった。

結果的には、多少の混乱(?)は招いたものの致命的なことはなく済んだ。
立ち乗りリフトもすっかり慣れ、外部の運転手さんともコミュニケーションを取れるようになってきた。
まだまだ師匠には足もとにも及ばないが、鬼のように入庫が集中するか、特殊な商品でもない限りは何とか仕事になっていきそうだ。

最近は仕事をしていて「情報」という言葉の意味についてふと考える場面がある。
情報を訓読みすれば「情けに報いる」ということになるが、考えれば考えるほど「深いな」と思う。
日々の暮らしの中では、たまにムシャクシャはしても基本的には思いやりを持って過ごしたい。
「思いやり≒情け」とすれば、それがあるところには様々な「報い」が自然と流れ込んでくる、というのが「情報」という言葉の本当の意味するところであろう。
きっと、曲がりなりにも私なりの「情け」が師匠に通じているから、リフトやトラックの運転のチャンスなり、仕事上の詳しい注意点なりの「報い」が求めなくても入ってくる。
昔の人だけに口調はいつも厳しいものの、決して攻撃目的ではない師匠の側からの情けは十分感じられるので、そういったお互いの積み重ねがあるからこそ、今は息をうまく合わせて仕事ができているのだと思う。

そう考えると、「情報」という言葉の本質が理解できない人間の毎日というのは大変に薄っぺらいものになりそうだ。
例えば、特に午後の小休憩の時だが、必ずといっていいほど他人のタバコをせびりに来る人がいる。
私のタバコはメンソールではないため被害にはあわないが、無言で他人の胸ポケットに手を突っ込んで半ば無理やり一本持っていく様は見ているこちらが恥ずかしくなるほどだ。

他人からいただくことばかり考えて他人に何も与えない人は、まずもって慕われる存在にはなり得ない。
特に部下を動かす立場にある人はそうだ。
日々のコミュニケーションを積み重ねる努力もしないで、その場の指示だけで人が動かせると思ったらそれは違う。
同じ言葉で人が動くか否かは、「愛情ありやなしや」というところに集約されるのだと思うが、部下を何人も辞めさせてしまうような上司はこの点が決定的に欠落しているのだろう。

私は、情けを感じる人には必死で付いていくし、逆に感じられない人に関しては目を見て話すのもイヤである。
その落差が同じ社内にありながらあまりにも極端なため、くだんのチンピラ社員ほか数人については、不思議に感じているか相当面白くないかのどちらかだろう。
まずは自らを顧みて「愛情ありやなしや」の部分を突き詰めていってほしいのだが、そこまで求めるのも酷に思えるレベルのような気もし、ないものねだりにならないかと危惧するところである。

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