逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

新型コロナウイルス感染の事態を憲法的に考察

2020-03-14 10:20:40 | コラム

日本バプテスト連盟の「憲法改悪を許さない共同アクション」のニュースレター№60(2020・3・18)より転載。
今回の新型コロナウイルス感染の政治、社会の動きを見て、どう理解したらいいのか?混乱している。
突然、安倍首相は全国の学校に休校要請するし、された方は文句も言わず従うし…。それってあり??教育って、学ぶ権利ってそんな程度のものなの?よくわかんない??そこで、下記の論文を精読してみました。皆さんもどうぞ。

国会を監視する    泉バプテスト教会 城倉 啓

 新型コロナウイルスの感染をめぐる事態について憲法的に考えてみます。疫学的な観点や経済的な観点には踏み込みません。
 憲法は「人権の砦」と呼ばれます。国家権力によって制約・侵害されがちな個人の権利・自由を、国家に保障させるための道具です(立憲主義)。特に「国家からの自由」と呼ばれる内容に国家が踏み込むことは厳に慎むべきです。国家からの自由の中核に「内心の自由」(19条)・「信教の自由」(20条)・「集会・表現の自由」(21条)があります。今回の事態の場合、個人の行動の自由(22条)や、学問の自由(23条)が、政府によって著しく制約されていることが問題となります。政府は教育を施す義務(26条)を3月2日から4月上旬まで放棄しようとしました。ただし政府は自治体や学校に「要請」しかできません。政府の意思を法律の裏付けなく強制することは憲法上困難だということを、政府自身が知っているからです。一部の議員が「緊急事態条項を憲法に書き加えたい」と思うゆえんでもあります。その延長線上にある法制化について警戒が必要です(後述)。
 学問の自由は教育機関の自治や学ぶ内容の自由を保障しています。憲法前文と合わせて、政府による戦争の惨禍を防ぐための重要な装置です。それは同時に内心の自由・信教の自由・表現の自由とも直結します。明治憲法と教育勅語が教育において子どもたちをマインドコントロールすることによって戦争を推進したことを反省して日本国憲法が制定され、教育勅語は廃止されたのでした。そして公教育機関の自治が保障されました(ましてや私立学校をや)。政府の要請に応えない学校・宗教団体・政治団体または個人に対して、不利益が及ばないように気をつけなければいけません。
 その一方で日本国憲法は個人の健康を守る義務を国家に負わせています(25条)。いわゆる「国家による自由」です。この観点に立つと国家は個々人の健康を守るために権力を用いなくてはいけません。個々人は、政府に向かって「感染の拡大を防げ」と訴えることができます。しかし現在の課題は、政府への「感染の拡大を防げ」から一歩踏み出して、お互いに「感染拡大防止に協力しない者は非国民である」と言い募り合い、国益のために個人の自由を市民社会自ら縮小させてしまっていることにあります。
ところで健康が守られるべき受益者は「国民」(10条)だけなのでしょうか。それとも「住民」(93条)まで含むのでしょうか。これもまた一つの論点です。というのも在日中国人や朝鮮半島出身者への差別を助長しかねない状況だからです。今回の場合、社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上は、どの範囲までが対象となるのでしょうか。日韓、日中の外交関係悪化も懸念されます。
 国会議員の多数の賛成により選出された総理大臣は(67条。議院内閣制)、有権者たちの代表です。憲法前文にあるとおり、国民は正当に選挙された国会における代表者たちを通じて行動するのですから(前文。間接民主制)、2月末に連発された総理大臣の諸要請も尊重すべきとも考えられます。
ただし、議院内閣制であっても国会こそが国権の最高機関であり唯一の立法機関です(41条)。上述のとおり政府からの要請には、国会で制定された法律の根拠がないので法的拘束力はありません。日本国が法律によって統治される法治国家だからです。3/10現在、全国の各学校には休校にする義務はないし、事実政府要請に従わない自治体・学校もあります。法律の方が政令よりも上です。
「では新しい法整備だ」と前のめりになる前に、現行法で対応できないかどうかも吟味するべきです。「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症法。1999年制定)と、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(新型インフル特措法。2012年制定)がすでにあります。
感染症法に基づいて政府は1月28日に新型コロナウイルスを「指定感染症」に分類しました(同法6条7項。2月1日施行)。この法律に則って予防方針と計画を立て、情報の収集と公表・健康診断・就業制限及び入院・消毒その他の措置・医療を行うことが本筋です。あるいは解釈を変えて「新感染症」に分類し直しても結論は同じです(同条8項)。市中感染という事態の中、情報の収集と公表が真っ先になされるべきでしょう。結果論ではありますが、国会閉会中にも指定感染症ないしは新感染症と分類し、予防方針と計画を立てておけば良かったのでしょう。ただその一方で日本は諸外国よりも感染拡大を抑制できているとも評価しえます。罰則規定の無い現行感染症法の対応で食い止めているのならば新たな法整備は不要とも考えられます。
新型インフル特措法は制定当時から、個人の自由を国家があまりにも制約しすぎるとして批判されています。特に内閣総理大臣による「緊急事態宣言」発令後、都道府県知事が学校や保育所などの使用の停止を指示できることや、大勢の人が集まる催しものの開催制限を指示できることが問題です。教会や教会付属の幼稚園・保育園・学童も対象とされえます。この法律自体が違憲立法である疑いが強いものです。最高裁が「憲法の番人」として法律の合憲/違憲を積極的に判断できるようにしなければ(81条)、内閣法制局が憲法判断を支配する現状が変わりません。この国において三権分立が成立していないことも一つの論点です。政府は新型インフル特措法を改正する形で新法をつくる方針と報じられています。これは自民党改憲4項目の一つである緊急事態条項を加えるというものと地続きの「法律による解釈改憲」の流れにあります。安保法制が9条に対する「法律による解釈改憲」であるのと同じです。
野党が主張する「緊急事態宣言発令および解除の国会事前承認」という要件は最低限盛り込まれるべきですが、今まで一度も緊急事態宣言しなかった実績を踏まえて、この機会に新型インフル特措法から緊急事態条項や強権的な内容を削除する改正がなされるのが良いように思います。
 日本国憲法は地方自治・地方分権も謳っています(92-95条)。地方自治体の意思を中央政府は尊重すべきです。新型インフル特措法制定の背景には全国知事会からの要請があったことも一定程度勘案しなくてはいけません。この国において地方分権という思想が弱いことも論点の一つです。中央政府と地方自治体の権限同士が衝突し利害が一致していない際には、「公共の福祉」(13条・22条・29条)という考え方を参考にしつつ慎重な調整が要求されます。特に今回は「全国一律小中高の休校要請」が中央政府の意思だったので、中央と都道府県の間だけではなく、都道府県レベルから基礎自治体レベルまでの丁寧な意見調整が必要です。公立中学校以下は基礎自治体が管轄しているからです。さらに言えば、隣接する地方自治体相互や、若者世代と年長者世代、小学校一年生と年長組やそれぞれの保護者たちなど、膨大な利害関係の調整が必要でしょう。民主政治とは異なる意見をもつ利害関係者間の調整だからです。
さて、元々「公共の福祉」とは、個人間の権利を調整するための考え方です。決して国益と個人の権利を取引してはいけません。憲法的には、国家<個人の不等式が大原則。だから、個人の行動の自由・教育を受ける自由は原則として無条件に保障されるべきです。自分の行動が他の個人の「感染しない自由」を侵す場合が例外として調整の対象となります。たとえば、自分が感染したことを知っている人が感染させることを意図して他の個人に働きかける場合です。感染しているかどうか不明の人の行動まで制約することは「人権の砦」である憲法に触れます。もちろん「咳エチケット」については、今般の事態とかかわらず子どもから大人まで身につけた方が良い公衆道徳でしょうけれども、道徳レベルの問題と人権レベルの問題との峻別が必要です。
 このような状況にあって政府の行為によって振り回されずに、群衆の声にも煽られずに、自分の頭で考えて主権者らしく振る舞いたいものです。わたしたちは自由を不断の努力で求め続けるべきです(12条)。自由をいったん自ら手放すと、二度と手の中に戻ってこないかもしれません。歴史の教訓です。
 筆者の勤めている小さな教会付属の幼稚園では、保護者に上記のような憲法上の論点整理をし、私立幼稚園が一貫して政府要請の対象外である事実と、立地自治体からの幼稚園に対する通知内容も伝えました。そして、「原則的に粛々と幼稚園の保育を卒業式・終業式まで行うけれども、子どもたちを通わせるか否かは保護者の裁量に委ね、この間の欠席はいかなる理由であれ出席停止扱いとする(本人の不利益にならないようにする)」という方針に、保護者からの理解をいただいています(3/10現在)。