逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

復活のいのちに生きる

2021-04-05 14:41:42 | 説教要旨
2021年4月4日 イースター礼拝宣教
「復活のいのちに生きる」 コリントの信徒への手紙一15章35-57節
 今日はイースターで、主の復活を感謝し、喜びの時。この時、私たちの信仰の核 心である「復活」について、パウロの手紙から教えられたいと思う。
 キリスト教でいう「復活」とは何か?そう自問自答する時もあるし、人から聞かれることもある。パウロも言っている。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」(35節)。私たちのこのような問いは、物理的な復活、墓場からの復活を期待しているかのようだ。物理的に客観的に他人事のように問うている。この質問に対して、パウロは、問い方が間違っている、「愚かな人だ」と言っている。
 では、パウロは復活についてどう説明するのだろうか。それが37節以降である。まず、種のたとえを用いて説明する。人が蒔くのは「ただの種粒」。しかし、その種粒から芽が出て、実へと成長するのである。つまり、種の死を通して、新しい芽が生き、豊かに実るのだ。さらに、種だけではなく、命についても、このことが当てはまると言う。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(44節)と言っている。まず、自然の命の体、生物的生命が与えられ、そこから芽が出て、やがて、霊の体になる、というわけだ。さらに、42-43節では、「朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものに復活する」とも言っている。復活によって、霊の体となり、命が生き生きと輝いてくるのだ。朽ちるしかない命が、霊の体として力強く生き始めるのである。これがパウロの復活論である。キリストを信じる信仰によって、古い自分が死に、希望をもって新しい命に生きる、ということである。
 よく私たちは「あの人は化けたな」とか、「一皮も二皮もむけて、変わったな」と言って、良い評価をすることがある。私たちの人生においても、その人が何かを習得したり、感得したり、厚い壁を突破したりして、良い方に大きく変化することがある。言いたいことは、人間は変化することがあるということ。
 復活ということも、変化するということにおいては同じではないだろうか。要するに、復活とは、霊的なものへの変化であるということ。ちなみに、この箇所には「今と異なる状態に変えられる」「私たちは変えられる」「朽ちないものに復活」「霊のからだ」「天に属する」「朽ちないものを着る」「死なないものを着る」などという言葉が使われている。復活とは、霊的な命への変化を意味する。そして、一人ひとりの、霊的な命への変化が「神の勝利」なのである。というのは、私たちはもはや罪や死に服従しなくてもよいのだ。罪に定められた命だけれども、死と罪から解放されて生きる、希望をもって生きることができるようにされていくのだ。これがキリスト者の自由、希望である。罪に打ち勝つ勝利である。なぜなら、キリストによって罪は贖われたからである。神の勝利とは、イエス・キリストを通して、一人ひとりが永遠の命に与れること。それゆえ、私たちは、罪と死と絶望から解放されて生きることができるのである。
 勝利の様子が、42-43節に書かれている。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活する」。この個所の「復活」を「変化」と読み替えてみよう。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに変化し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに変化し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに変化する」。これは励ましと慰めの言葉である。神を信じて生きる。それが私たちの命の本質である。神の導きに従って、喜んで生きる。感謝して生きる。これが復活の命、霊の体、永遠の命、神の勝利である。
 復活の命に与ろう。一人ひとりに、いろいろな困難、苦しみ、悲しみ、絶望はあるが、その私たちに命を与えてくださるのがキリストである。キリストを通して、復活の希望が与えられている。一人ひとり、生きるに値する命である。そして、なによりも私たちが復活の命に生きることを神は誰よりも望んでおられるのである。

疑いは純粋性のあかし

2021-04-05 12:04:41 | 説教要旨
2021年3月28日 主日礼拝宣教
「疑いは純粋性のあかし」 ヨハネによる福音書20章19-29節
 トマスの言動が具体的に記されているのはヨハネの福音書だが、最もよく知られているものは主イエスの復活をめぐる場面のところである。彼は復活の目撃者の報告だけでは納得せず、実際に手とわき腹の傷に触れてみなければ信じないと、懐疑的な態度を示したという話だ。私が興味を抱いたのは、主イエスが復活した日の夕刻、弟子たちに姿を現されたとき、トマスがそこにいなかったことだ。
 不在の理由は記されていないのであくまで推論の域を出ないが、もしかしたら、ある聖書学者たちの言うように、トマスは主イエスの死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく「傷心のあまり会うに忍びなかった」のかもしれない。もしそうだとすれば、彼の不在は心の優しさの表れと言ってもよいだろう。悲惨な現実にふれて泣き崩れ、立ち上がれないような人は弱い人というのではなく、心の優しい人だ。言い換えれば、彼は愛の深い人だったということである。愛の深い人は悲しみも人一倍深く感じるからである。
 ところで、不在の理由が「傷心」でなかったとしても、トマスに関するもう一つの記録は彼の心を推察する手がかりになるのではないか。それは、ベタニヤに住むマルタとマリヤの兄弟ラザロが病気であると伝えられた時、主イエスの「さあ、彼のところへ行きましょう」という呼びかけを聞いて、トマスは他の弟子たちに「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と言っていることからわかる(ヨハネ11章)。トマスはこの時期にエルサレムと近距離にあるベタニヤに行けば、主イエスを捕らえようとしていたユダヤ当局により殺害される可能性を予想してそう言ったのだろうと思う。殉教してもいいというわけだ。
 このようなトマスの発言をどう解釈したらよいのだろうか。一時的、反射的な反応と言ってしまえばそれまでだが、仮にそうだったとしてもなんと勇気のある態度だろう。というより、主イエスをなんと愛していたことかと私は思ってしまうのだ。彼の精いっぱいの主イエスへの愛が表れているのではないだろうか。
 では、トマスが主イエスの復活のニュースを知らされたとき、なぜ「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったのだろうか。ここで人は「懐疑論者」というラベルを貼る。しかし疑うという行為は反対から見れば信じたいということであり、信じられる証拠がほしいということは何としても信じたいという、複雑ではあるが信仰のもう一つの側面でもあるだろう。対象との関係が深いと言ってもよく、これは人間関係でも同じ。愛や信頼関係が形成されていく過程では疑いや不安の波も生じるのである。
 ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑からまぬがれることを求めるものではなく、いろいろのためらいや錯誤、数々の失敗や間違った出発によって手探りで進むものである」(『強い人と弱い人』)と言っているが、懐疑をこのように理解することは求道や信仰に対する健全な態度であると思う。
 私がトマスに親しみを覚えるのは、このような純粋性である。このようなトマスなら何でも話せるような気持ちがする。なぜなら、そこに愛と純粋性を垣間見るからである。このように親しみを覚えるトマスだが、彼はその後に「わたしの主、わたしの神よ」と思わず主告白をする。それは主ご自身からのトマスへの働きかけがあったからだった。トマスはよく知っている主イエス、そのお方に間違いないかどうか確認したかったのだ。主イエスはその思いというか、疑いを拒否することなく、トマスに手と脇腹をお見せになり、触ることすらも許されたのだ。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに勧められたのである。そこでトマスは思わず「わたしの主、わたしの神よ」と告白せざるを得なかった。主はトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。
 トマスは見る前に、弟子たちからの証言を聞くことで主を知る機会があったことを知らねばならない。私たちもまたパウロの言葉、「信仰は聞くことによる」(ローマ10:17)を思い出す必要があるだろう。同時に聞くことで信仰を得た人は、主から幸いな人であると言われていることを知らねばならない。主イエスのトマスに対する深い憐れみと愛は、疑い深い私たちに今も注がれている。そして主イエスは今日も私たちに呼びかけておられる。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。