逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

賛美に生きる

2021-12-28 11:41:13 | 説教要旨
2021年12月24日 イブ礼拝
「賛美に生きる」 ルカによる福音書1章46-56節
 讃美について次のような言葉がある。「ああ、主の民の最大の罪とは、讃美の不毛である。まことに一行の讃美は一葉の祈りにも値し、一時間の讃美は一日の断食、悲嘆にも劣らぬ価値があるという事を、どんなにか私は心から信じさせられている」。賛美の素晴らしさを言っている。
 讃美は主の恵みへの応答であり、祈りであり、信仰告白でもある。今日の聖書箇所は「マリアの賛歌」と言われているところである。マリアは「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」(49節)と主を賛美している。その「偉大なこと」は実は複数形。私たちは主の恵みをいくつ知っているだろうか。恵みはすぐに恵みとわからず、マリアのように戸惑い、不安になるものかもしれない(1:29)。しかし、主の恵みと分かったなら、心からの讃美をしたいものだ。また、主の恵みはすでに起こったものもあるが、これから起こるものもある。私たちはこれからのことについても確信して、讃美をもって応答していきたいものだ。
 このマリアの賛歌の冒頭に「わたしの魂は主をあがめ」とあるが、「あがめ」の「崇める」は、大きくするという意味を含んでいる。続けて読んでいくと、「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(47-48節)とある。その中の「目を留めてくださった」は、文語訳では「そのはしための卑しきをも顧みたまえばなり」と訳されている。神がこちらを向き、目を留めてくださるなどとは思ってもみなかったのに、こちらへ振り返ってくださった。そこに思いがけない喜びを感じたのだ。しかも、この後マリアが歌う歌は、堂々たるものである。ルターは、「身分の低い」という言葉を「無きにひとしい」とさえ訳している。顧みに値するものは何もなかったのである。しかし、そのような者が神のまなざしの中に立ったとき、揺るぐことなく、畏れることなく、讃美に生きたのである。
 マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも」と言っている。そのマリアに神は「目を留めてくださった」のだ。さりげない告白のようであるが、ここには思いがけない恵みを発見した者の正直な告白がある。恵みは数えるものだといわれるが、過去を振り返ってみなければ分からない。私たちには、恵みを受ける資格も条件もあらかじめ持ち合わせていない。私たちの人生に神が働いてくださった事実があるのみだ。私に働いてくださった神は、私が理解や納得するように働いてくださるとは限らない。しかし、よくよく人生を振り返ってみると、その歩みのところどころ、方々に思いを越えた神の働きを見るだろう。それこそ恵みの事実がそこにあるとしか言えないのだ。マリアは、我が身に起こった神の働きの事実をそのまま、人々に伝えたのだ。彼女がいかに神を信じたかではなく、起こった事実を語っているのだ。それこそ生の信仰告白ということが言えるだろう。
 今見て来たように、クリスマスとは、神の愛の出来事を共に感謝し、喜び、讃美する時でもある。この一年の間、わが身に起こった数々の神の愛の出来事、恵みを数えつつ、感謝と喜びと讃美を持ってクリスマスを迎えよう。

希望を持って待つ信仰

2021-12-28 10:52:23 | 説教要旨
2021年12月26日 主日礼拝宣教
「希望を持って待つ信仰」 ルカによる福音書2章22-38節
 最近、政治家などは何かというと「スピード感を持って」と発言する。確かにこれだけ社会の変化が速いと、政治家もそう言わざるを得ないのだろう。しかし、私など高齢者はついていけない。ことにIT(情報技術)などが発達すればするほど、「待つ」ということが難しくなってきている。若い人たちのスマホでのメールなどの返信などはそのよい例。即答が4割、十分以内では7割という。
 これは若い人たちだけの問題ではなく、仕事そのものが「速く、速く」という時代だから、じっくり考えたり、待ったりすることが難しくなってきているのは確かだ。それによって、いわゆる「キレる人」が多くなっているのも、こうした時代と決して無関係ではないと思う。
 こんなことを考えていると、なぜかその対極にあるような聖書の世界に生きた人々に私の心は引き寄せられるのだ。旧約時代の預言者をはじめ、救い主キリストの来臨を待ち望んでいた人々に、である。中でもキリストの降誕物語に登場するシメオンとアンナは、「待つこと」について、私の目を開き、新たな洞察へと導いてくれた人たちである。
 話はイエスが誕生して40日が過ぎ、両親が「幼子を主にささげる」(キリスト教では献児式という)ためにエルサレムの神殿に上った時のこと。二人の老人が幼子イエスとその両親(ヨセフとマリア)を出迎えた。その一人がシメオン。ルカの福音書によれば、彼は「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」(2:25)とある。何百年も前に預言者たちが預言した救い主(罪から救う者)の到来を待ち望んでいたのだ。
 彼は幼子イエスを抱いて神をほめたたえ、「主よ、今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」と言っている。これは、長い間待っていた救い主が誕生したのだから、もういつ死んでもいいという意味だろう。
 この時、もう一人、アンナという女預言者が登場する。彼女は7年間の結婚生活の後、夫と死に別れ、このときは84歳にもなっていたが、日夜祈りをもって神に仕え、救い主の到来を待ち望んでいた。
 ところで、このような気の遠くなるような「待ちかた」をしている人々の話を聞くと、この種の待ちかたというのは、どういうものなのだろうかと考えてしまう。歴史を通して、時間を超えて待つというような「待ちかた」は、ユダヤ人特有なものなのだろうか。私たちの生活経験の中ではイメージしにくいものだ。私たちが持っている「待つ」という概念とは何か大きな隔たりを感じる。
 しかし、この問題の考察を深めていくと、シメオンやアンナ、また救い主の到来を待った人々は、待つことの本質を告げているようにも思えるのだ。それは電車が来るのを今か今かと待つような、あるいはまた誰かと待ち合わせて、ときにイライラして待つような待ちかたではない種類のものだ。つまり自己中心的な願望に支配され、待ちくたびれてしまうことのないもの。人間が持っている時間ではなく、神の時間として待っているということ。コヘレトの言葉3章にある「何事にも時がある」という「神の時」を待つということだ。
 シメオンやアンナに見られる待つ世界は、自分の「願望」が中心ではなく、相手(神)を信じ、「希望」を持って待つというものである。神の時間に生き、待つ。信仰を持って待つ。聖書はこれを「待ち望む」と記している。ある人が「希望とは、いまだ答えのない問いを答えのないままにしようとすることであり、まだわからない将来をわからないままにしておくことです。希望は……神の導きの手を見させてくれます」と言っているが、待ち望むということは、今答えや将来が見えなくても待つことを可能にするものである。それは「信じる」ことを土台にしているからである。
 希望を持って待つことの難しい時代の中で、神の導きの手を信じ、待つことのできる者でありたいと、自らを振り返りつつ思う。