逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

神の恵みによる救い

2022-03-17 12:21:51 | 説教要旨
2022年3月13日 主日礼拝宣教
「神の恵みによる救い」ルカによる福音書18章18-30節
 今朝の聖書箇所に登場する「ある議員」さんは、支配層に属し、おまけに金持ち。主イエスから十戒の話をされると「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えるほどの模範的な信仰者だと自負している。
 そのような人が、なぜ主イエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねるのだろうか?私が思うには、どうも救われる、あるいは救われたという確信が持てないで、悩んでいたのではないだろうか?
この男は「何をすれば」と聞いている。この男の価値観は「できる、できない」で測られるもの。できれば救われる、できなければ救われない、という価値観からどうしても離れられないのだ。だから、できるという延長線にしか彼の未来は開けないのだ。できない、または負けた、という挫折感を経験したこともないようだ。だから、主イエスに「できないこと」をはじめて言われたので悲しくなったのだろう。「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ」とある。ここで彼の価値観は立ち行かなくなった。
 このあと主イエスは、「らくだが……」(18:24‐25)と譬えて言われる。それは人間にはできないことだ、と言っているようなもの。だから人々が「それでは、誰が、救われるのか」と思うのは当然だ。そこで、主イエスは言われる。「人間にはできないことも、神にはができる」。この言葉は、「救いは神の業だ」、ということをはっきりと言われたものである。
 そのことをこの話がルカ福音書18章においてどのような文脈に置かれているのか、その直前と直後の話を見てみよう。今日の話の前では、戒めをきちんと守り、自分を神の前にふさわしい人間だと自任している「パリサイ人」と対置して、「徴税人」が登場する。さらに「乳飲み子」。今日の話の後では「物乞いの盲人」が置かれている。いずれも戒めを守りようのない者であり、人々から見下され、主イエスに近づこうとすると「叱られて」もいる。しかし、それらの一人ひとりを主イエスは受け入れ、神の国が彼らの上に臨んでいることを宣言されるのである。
 だとするならば、「戒めをすべて守っている」と語る金持ちの男に「欠けていたもの」とは、次のように言えるのではないだろうか。つまり「この世の財産を持ち、律法の戒めを守ることによって、神の国に入る資格が得られる」という彼の神の国理解が根底からひっくり返されたということ。そして、「貧しい者」にこそ神の国が宣言されていることを受け入れ、これまで「徴税人」や「乳飲み子」「物乞いの盲人」を見下してきた自分の価値観を砕かれ、彼らの仲間に飛び込んでいくこと。それこそがこの金持ちの男に「欠けていた」ことであり、そのような「価値観の全くの転換」(悔い改め)に導かれて、エルサレムへ向かう主イエスに従うように招かれたのだ。
 しかし、そうはいっても「自分のものを捨てて、あなたに従いました」と胸を張る弟子のペテロさえ、このあと主イエスに従いきれない自分を見出し、涙を流す(22:62)。そのように神に従い、隣人を愛しきれない自分の限界を思い知らされる時、「人にはできないことも、神にはできる」(26-27節)の言葉がまさに私たちに向けて語られていることを覚えよう。ここで私たちに向けられているメッセージは、主への全幅の信頼をもって、祈り求めることが大事であるということである。

オンラインの功罪

2022-03-17 11:29:10 | コラム
 2年以上も続くコロナ禍でオンライン(Zoomなど)の会議、集会が続く。会社ではテレワークが推奨され、学校ではオンライン授業が取り入れられた。私も毎日のようにメールでのやり取りやZoomでの会議や集会に参加している。確かに情報は共有できる、それも素早く簡単に楽にさらにどんな場所からでも。でも、何か物足りなさを感じていた。何か大事なものを取り残しているのではと思っていた。だから、次のような川島隆太教授(東北大学)の言葉に納得した。
 川島教授は次のように警告する(朝日新聞2月3日)。「オンラインは、脳にとってはコミュニケーションになっていないということ。つまり、情報は伝達できるが感情は共感していない、相手と心がつながっていないことを意味する。これが多用され続ければ『人と関わっているけど孤独』という矛盾したことが起こってくるのではないかと推測する。」
 一日も早いコロナ禍の収束を祈るばかりだ。生身の出会いと交わりを通しての豊かな時間を取り戻したい。

主よ、憐れんでください

2022-03-17 11:26:09 | 説教要旨
2022年3月6日 主日礼拝宣教
「主よ、憐れんでください」ルカによる福音書18章9-14節
 今日の聖書箇所で、主イエスは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18:9)、対照的な二人の祈りを語っている。ここで主イエスは二人の祈りを通して、何を教えようとされたのだろうか。それは「祈り」というものはそのままその人の「信仰の姿」を映し出すということを教えようとされたのではないだろうか。関係が人間を形成するように、神との関係がその人の信仰の姿を作り、その信仰の姿が祈りに現れる、というわけだ。さらに言うならば、神との関係が他者との関係にも現れるということである。さっそく対照的な二人の祈りを見てみよう。
 たとえの中の二人はあまりにも対照的である。一人は律法を忠実に守るユダヤ人のリーダーであるファリサイ派の人、もう一人は同じユダヤ人でありながら、ローマ帝国への税金を取り立てていたため、人々から嫌われていた徴税人。
 二人は祈りにおいても対照的である。ファリサイ派の人の祈りは喜びの祈りであり、その喜びを感謝する祈り。ただし、その喜びは人の低さを喜び、自分の高さを喜ぶという、「人と自分の比較」の中の喜びであり、感謝である。彼はこう祈っている。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」この他者を冷たく切り捨てる姿は、神の愛とはかけ離れた姿である。さらに彼は次のように祈りを続ける。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」彼は価値基準を自分の手の中に持っている。基準が自分にあるということは自分を神としていることに通じる。だから、彼の祈りは自分を賛美するだけの神無き祈りとなる。
 それに対する徴税人の祈りは、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(18:13)。確かに徴税人は罪人と呼ばれていた。そしてみんなから行為を非難される中で、彼もいつしか自らの行為を汚れたものとし、さらには自分で自分の存在さえ否定していた。「どうせ俺はバカだよ」とか「どうせ俺はダメ人間なんだ」などと言って、自己卑下したり、自己否定して、自己肯定感が持てない人間だったのである。だから、彼は「わたしの罪」ではなく「罪人のわたし」と、はっきり自分の存在を否定し、自分に対してとことん絶望していた。
 この二人の姿に「罪」の姿を見ることができる。ファリサイ派の人の罪は自分を基準(神)として他者を裁く罪。一方、徴税人の罪は自分で自分を裁く罪。自らを正しいとする人は他者を裁き、他者を傷つける。反対に、自らを否定する者は自分を裁き、自分を傷つける。他者を裁いて傷つけることも、自分を裁いて自らを傷つけることも私たちには許されていない。裁くことができるのは神だけである。
 しかし、「憐れんでください」と訴える祈りが、絶望の中にいる徴税人に希望を与える。「憐れむ」とは「同じように痛み苦しむ」ということを意味する。「神さま、あなただけは誰も分かってくれない私のこの心の痛み、分かってくれますよね、憐れんでくださいますよね」と祈る中で、彼は対話する相手、神の存在を確認するのである。祈る相手がいるということは孤独ではない。神は共におられるのである。そこに希望を得た徴税人は「義とされて家に帰った」(18:14)と主イエスは言われる。「義とされる」とは神から「それでよいのだよ」と言われるということ。共におられる神は、決してその関係を閉ざされない。赦すために神はいつも私たちの祈りを待っておられるのである。
 さて、皆さんは、「憐れんでください」と祈ることがありますか。私は、たびたび「憐れみたまえ」「憐れんでください」と祈ることがある。その時の私は自分の無力さ弱さ限界を強く感じる時である。だから、そう祈らざるを得ないのだ。カトリック教会の礼拝で歌うミサ曲の最初は「キリエ・エレイソン」といって、「主よ、憐れんで下さい」という意味。その「キリエ・エレイソン」を繰り返し歌う、というか唱える。それは悔い改めの祈りでもあるのだ。
 主イエスはたとえの中で、徴税人を次のように語られている。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(18:13)。ここには、ただただ憐れみによって生かされる罪人としての自覚がある。自分の罪に途方に暮れ、ただ赦しを乞うばかりの祈りがある。罪の中にある者は、神を仰ぎ見ることもできない。だから「目を天に上げ」ることができないのだ。そして「胸を打ちながら」の徹底した悔い改めと、だから神に憐れみを乞うしかない主への信頼がある。それが「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という大変短い祈りとなったのだ。 それこそが主イエスが求められる信仰なのである。