逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

自立と協力

2022-08-08 11:41:11 | コラム
 「自立する」と「独立する」と「孤立する」の表現の違いは何だろうか。「自立」は、自分から進んで、自分の活力でやること。「独立する」は、他に服従しないで自由になること。「孤立する」は、相手を求めても得られないで、まわりから切り離されて一人だけポツンといること。 
 日本バプテスト連盟は「全日本にキリストの光を」の標語を掲げ、その使命のために加盟諸教会が「自立と協力」の理念のもとに福音宣教の業に励む教派である。私たちの教会は「自立」しているだろうか。経済的自立は、組織的自立は、そして何よりも信仰的自立はどうだろうか。何かに依存していないか。自ら進んでという主体性は発揮されているだろうか。
 では「協力」は?連盟・連合内の教会との協力は、地域の教派を超えた教会との協力は、地域の諸団体との協力はできているだろうか。孤立してないだろうか。教会形成を考える上で大切な視点である。   

映画は映画館で

2022-08-08 11:37:03 | コラム
 昔の名作映画がデジタル修復されて、全国の映画館で上映される「午前十時の映画祭」という企画がある。6年前にこの企画を知って以来、もう映画館で見られることはないだろうとあきらめていた名作を何本も楽しんだ。
 もちろんビデオやCD、またはテレビで昔の名作を見ることはできるが、私は、映画はわざわざ映画館に出かけてお金を払って暗いところでスクリーンで見るものだというこだわりを持つ、ちょっと変わった映画ファンなのである。ある海外の映画監督の言葉。「人はみな社会で役を演じている。映画館の暗闇は、役を捨てて匿名で好きな世界に身を隠せる自由な空間なんだ」。
 今年もオードリー・ヘブバーンの「いつも2人で」、ジェームス・ディーンの「エデンの東」を楽しんだ。もちろん過去にビデオで見ているが映画館で見るのが楽しいのである。いつまで映画館に通えるだろうか、それが問題だ。 

問われるほどに愛されて

2022-08-08 11:26:59 | 説教要旨
2022年8月7日 主日礼拝宣教
「問われるほどに愛されて」フィリピの信徒への手紙1章4~11節       
  人生の中で、人々から無視されたり、関心を持たれないことほど、つらく悲しいことはない。だれかに怒られてがっかりして落ち込んでいる人に「怒られているうちがハナだ」と言って、慰め励ますことがある。家庭において、親子や夫婦の間でも、今日はどんなことがあったのと問い合い、互いに関心を持ち合うことによって、自分は愛されているのだという喜びを持つことができる。ある哲学者の言葉に「愛とはたえざる問いのことだ。人生で、誰も、何も聞いてくれない苦痛」というのがある。
 フィリピの信徒たちはパウロから、手紙を受け取った。だれにとっても手紙をもらうということは、嬉しいもの。手紙というのは、私はあなたを覚えていますよ、あなたに深い関心を持っていますということの証明でもある。しかもパウロはこの手紙の中で、フィリピの教会の一同に対して、いかに心にかけているかということを繰り返し強調している。7節では「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」と述べている。 
 このような愛の心から、祈りが生まれる。まず9節以下で「あなたがたの愛がますます豊かになり……」とある。ここでの愛は、彼らの人間的な愛ではなく、神からの恵みとしていただいている愛である。神の愛(ギリシア語で「アガペー」)は、人間が生まれながらに持っているものでも、努力すれば身についてくるものでもない。ただ上から垂直的に、神からの恵みとして与えられるもの。私たちが通常、愛と言っているものは(ギリシア語で「エロース」「フィリオ」)、美しいものや価値あるもの、大きく強いものに心が引き付けられていくことである。これに対して神の愛は、価値なきものを愛し、無なるものの中に価値を生み出す創造の愛なのだ。イギリスの小説家、『ナルニア国物語』で有名なC・S・ルイスの『四つの愛』の中に、次のような意味のことが書かれている。「愛というものにはいろいろの愛がある。愛情、友情、恋愛など人間の愛は美しいものであるが、バラの花のようにトゲがある。愛の美しさの中に落とし穴があり、滅びに至る危険がある。エゴイスティックな醜いものがある。だからそのような愛が、聖なる愛、神のアガペーの愛によって支えられ、清められ、変えられていく時に、輝く愛になるのだ」と。
 マザー・テレサがある町で、生きているかもわからないような、誰からも知られていない一人のお年寄りを訪ねた時、部屋はひどい状態で、ほこりまみれになっているランプがあった。「なぜランプをつけないのか」と尋ねると、「だれのために。誰も来やしません」と言ったという。それでマザー・テレサはそれでは「シスターたちがあなたに会いに来たら、ランプをつけてくださいますか」と聞くと、「いいとも」と答えたというのだ。やがてテレサに伝言があった。「あなたが私の生活にともしてくれた光は今も燃えている」と。
 私たちの人生も、誰からも顧みられないほどに小さく、やがて忘れられていくものに過ぎない。ぱっと消えていく泡沫のようでもある。しかし10節で「キリストの日に備えて……」と語られている。人生にも総決算の時があって、最後の日、究極の日に、私たちの愛が神から問われるというのだ。
 最初の人、アダムとエバに対して、主なる神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた(創世記3:9)。神は絶えず問いかけられるのだ。私たちはいかに生きているのか、生きてきたのか、神は大問題にされるというのだ。人間はたえざる神の問いの前に、立たされている。今も声なき声で問い続けておられる。
 しかしこのような問いの背後には、人間に対する神の燃えるような愛がある。問われるほどに、愛されているのである。神は私たち一人ひとりに、深い関心をもっておられるのだ。なにがあったの、どうしたの?問われるのである。
 長い歴史や大きな社会から見れば、私たちは無に等しい存在かもしれない。実際、人から無視されることもあるだろう。しかし神だけは心にかけてくださるのだ。そして愛においてどれだけ豊かであるか、と問われるのである。たとえ小さな生涯であっても、心のランプに神の愛の大きな光をともし、ますます輝かせるように求めておられるのである。この神の問い、神の愛に応えていこう。