逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

逗子第一教会の23年の五大ニュース

2024-01-15 11:29:06 | コラム
 23年最後の祈祷会で、逗子第一教会の五大ニュースを考えた。数えてみよ、主の恵み、です。
 第一は何より、4月からの新しい牧師を招聘できたこと。その方との出会いは神学校週間の一環としての宣教奉仕に来てくださったこと。ここからすべてが始まった。
 第二は3名の転入者が与えられたこと。Sさん、Uさん、Iさん。壮年の頼もしい方々ばかり。3人も!これはもう奇跡、と叫んだことだ。
 第三は横浜戸塚教会との協力伝道が具体的に推進されたこと。交換講壇、合同祈祷会、除草作業の奉仕と交わりなど。香港ミッションチームとも出会えた。
 第四は秋のアコーディオンコンサート。熊坂路得子さんの素晴らしい演奏と証し。感謝。
 第五は駐車場の柵の設置と整地。これで車の駐車状況がすっきりした。するとすぐに2台の駐車依頼があった。
 本当に、数えてみよ、主の恵みです。感謝、感謝。 

気づきと感謝

2024-01-15 11:19:39 | 説教要旨
2024年1月14日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「気づきと感謝」 ルカによる福音書17章11ー19節
 私たちは、意識するとしないとに関わらず、往々にして、「その宗教がどれだけ役に立つか」、「礼拝がどれだけ役に立つか」という基準によって判断したり選択したりすることがある。すなわち「神と取引し、自分のニーズに応じて教会や礼拝に関わる」ような意識や行動が、知らず知らずのうちに侵入してきている。だからこそ、私たちはそうした危険に取り囲まれながら、信仰生活や教会生活を送っていることを常に意識し続けていなければならない。
 礼拝は人間と神が「取り引き」する場ではないし、商売でもなく、教会もそのための商店ではない。聖書は、あらゆる私たちの人間的な思いに先立って、神ご自身が私たちに本当に必要なものをご存知であると告げている。マタイによる福音書6章25節以下を読むと、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とある。
 私たちを創造し、私たちを恵み、私たちを見守ってくださる神は、全て必要なものを私たちに与えてくださる方である。私たちが必要とするものを全て喜んで与えてくださる方に対して、どうして「取り引き」する必要があるだろう。礼拝とは、何かを獲得するために人々が集まる場ではなく、私たちに本当に必要なものがすでに与えられていることを知って感謝する人々の集いなのである。
 このことを今日与えられた聖書の箇所、ルカ福音書17章11節以下に記されている「重い皮膚病を患っている十人の人の癒し」から教えられたいと思う。この話は、当時のユダヤ社会で大変嫌悪された「重い皮膚病」にかかっていた十人の人が、主イエスによって癒され、それぞれ社会復帰を遂げることができたことを語っている。十人は全員が病を癒され、健康になった。しかし、聖書によれば、この癒された十人のうちで主イエスのもとに戻ってきて感謝し、神を賛美した人はたった一人しかいなかったというのである。宗教改革者ルターはこの物語について、礼拝とは「癒されるための条件」ではなく、「癒された者の感謝の表現」なのだと説いている。
 特にここで注目したいのは、十人すべてが癒されたという事実である。感謝した者もしなかった者も、全員その願い通りに癒されたのである。それにもかかわらず、神をほめたたえるために戻ってきたのは、たった一人だったというのだ。ここには、神と人間との関係を理解する上で、また礼拝とは何かということを理解する上で、とても重要なカギがあるように思う。キリスト教は、旧約聖書以来の伝統に沿って、次のことを主張する。「すべての人間は神の恵みによって創造され、すべての人間は神の恵みの中に置かれています」。しかし、すべての人間がこの恵みに気づいているわけではない。この恵みに気づいた者は感謝する。しかし、気づかない者は感謝しない。気づいた者は礼拝する。気づかない者は礼拝をしない。
 私たちの時代は礼拝しない人間の時代である。人間が自分の力に頼ることしか知らず、「神の愛」を信じることのできない時代である。「自分に役に立つか立たないか」を基準にしてすべてを決定し、お互いがお互いを利用する「利己主義の分かち合い」によって生きているような時代である。しかし、そのような世界の中では、人間は本当に人間らしく、安心して生きていくことは出来ないだろう。
 キリスト者が礼拝に参加するのは、神から何かを獲得したり、神と取り引きしたりするためではない。私たちが礼拝に参加するのは、神がすでに私たちを愛してくださっていることに気づき、それに感謝するためである。そしてさらに言えば、このような気づきと感謝の中で礼拝することを通して、私たちはこの世に向けて、神に感謝する生き方があること、人間は神の恵みによって生きるということを証しするのである。私たちの礼拝とは、そのような広がりの中で行われる「神の民」の喜びの告白であり、同時に宣教の業であることを忘れないようにしたいと思う。