逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

交わりの回復

2019-07-08 09:37:03 | 説教要旨

2019年7月7日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「交わりの回復」 マルコ福音書5章1-20節

 7節に「かまわないでくれ」、口語訳では「あなたは私となんの係わりがあるのです」とあるが、これは汚れた霊が、よく主イエスに向かって言う言葉である。悪霊は私たちの心に向かっても、主イエスは十字架について死なれたが、それがあなたと何の関わりがあるかとささやく。私たちが十字架の愛をいただいておりながら、心が燃えず、冷ややかな態度をとり、いつも計算して、自分が傷つかない程度にしか主イエスに従っていかないのは、この悪霊のささやきに、心を奪われているからではないか。主がどんなに私たちを愛し、憐れんで下さっているかを感得できなくなってしまっているのである。
 
 村の人々は、正気になった人の様子を見て「恐れた」(15節)とある。喜ぶよりも、恐れた。しかも、この恐れは、主イエスを歓迎するよりも、「出て行っていただきたい」と頼み始める反応を引き起こす。一人の人の元気の回復は、だれもが「おめでとう」の言葉を差し向けるに違いない。ところが、そのため豚二千匹の犠牲が伴うことを知るやいなや、人々の反応がガラリと変わる。「あの人のために、そこまでする必要があるのか」と。打算的な損得勘定に毒された、私たちの反応である。
 
 一方、大きな癒しの働きをした相手、主イエスに対しても「これ以上騒ぎをおこさないでもらいたい」という仕方で排除しようとする。他者の回復よりも自らの平穏を大切にしたいとの考えからである。しかし、その平穏は、誰かを「墓場」に住まわせる上で成り立っているものではないか。排除の論理と関係性の喪失である。
 
 『そんなの、関係ねえ』というフレーズが以前はやったが、現代の日本人は自ら関係を絶つことを望むような傾向にある。隣近所の付き合いから始まって、職場、親戚、友だちなど、様々な付き合いをわずらわしいものと思うような傾向がある。そのようにして自ら関係を絶っていくことにより、ますます孤立感を深め、人間不信を増長させ、さらに自分自身をも傷つけていく。最後は自己否定へと陥ってしまう。「だれでもよかった」という殺人容疑者の供述はそのことを物語っているように思う。関係性の喪失の結果起こった悲劇であろう。
 
 様々な痛みや悲しみ、重荷を背負った人々が私たちの間に置かれている。教会が仕えていくには、時間と忍耐が求められる。豚二千匹が死んでしまうような大きな犠牲が伴うことであるかもしれない。しかし、厳しい関係の中に留まりつづけようとされた主イエスに励まされて歩むとき、大きな神の業を見させていただくことができる。私たち一人ひとりは、主の憐れみの証人として、どういうかたちで他者に仕え、関わることが出来るだろうか。それには、まず私たちが礼拝において神としっかりつながることである。私たちは礼拝において力や知恵や忍耐力、勇気、希望、慰め、励ましなど、多くの恵みをいただいて、それぞれの場へとつながりを持つようにと遣わされていく。そして、出会った人と主イエスとの橋渡しのお手伝いをする。この働きに励む一週間となるように。

一方的な無条件の神の愛

2019-07-02 11:42:09 | 説教要旨

2019年6月30日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「一方的な無条件の神の愛」 マルコによる福音書1章1-13節

4月28日の礼拝で同じ聖書箇所で、メッセージをした。少しおさらいをしてみよう。書き出しの1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」はマルコ福音書の表題だといってもよいし、同時にこれから何を書くのかその内容、意図を表してもいる。マルコ福音書が書かれた、初代教会の初期の頃はイエスの十字架と復活の出来事が中心であって、これによって、イエスというお方は、地上の宗教的人物ではなく、神の独り子であるとの信仰を確立していった。だからマルコは、この信仰を端的に表明して、いわば信仰告白として「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始めたのだ。

そこでマルコは1章1節を書いたのち、2節からいきなりイエスの公生涯の記述から始めている。他の福音書にある誕生物語はない。2節から13節には、イエスは救い主(キリスト)だということを確証する三つの出来事が記されている。それはあくまでも、イエスが神の子、キリスト(救い主)であるということをこれから詳しく書くが、イエスがこの地上で何をなさったかの出来事の記録のプロローグとして、この箇所が書かれているように思われる。

私たちはこのプロローグを通して、私たち人間が天に昇るのではなくて、神の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということ。さらに、神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられた、そのイエス・キリストを通して、私たち罪ある人間を受け入れ、愛して下さっているということを学んだ。そのことを通して、前回は、「神の愛は降りていく行為」であるというメッセージを受け取った。神の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということである。

今回は、さらに「神の愛は一方的で無条件の愛」であるという、まさに福音を受け取りたいと思う。それは私たち人間の愛と比べてみればよく分かる。私たちは、愛することよりも愛されることを強く願う傾向がある。親から愛されたい、友だち、先生、職場の人、恋人、とにかく愛されたい。自分の方だけを見ていて欲しい。一方、愛することは忘れがち。たとえ愛したとしても、私たちの愛は多くはギブ&テイクであり、限界を持っている。そのような愛だけど、愛情をもって育てられたり、自分の周りの多くの人たちから多く愛された者は、愛される喜びと同時に愛する気持ちも育っている。なぜなら、愛するとはどのようなことかよく知っているからである。逆に愛されたことの少ない人は愛することもよく知らない。心は渇いている。

では、私たちの魂はどうだろうか。魂の渇きを覚えているだろうか。そして神の愛を切実に求めているだろうか。もし、今日、魂の渇きを覚えるならば、ぜひ神の一方的で無条件の愛を思いきり受け取っていただきたい。「あなたは私の愛する子」。これは神の子イエスだけではなく、私たちにも呼びかけられている。それも無条件で。いや、無条件だけでなく、神の愛は無限。すべての人に等しく愛が注がれている。その神からの愛を受け取り、恵み、慰め、励まし、力をいただき、愛する者へと変えられる素晴らしい霊的経験をしてほしい。また、すでに神を信じておられるならば、「あなたは私の愛する子」、この神からのイエスに対する言葉が、今度はイエスを通して私たちに届けられていることを覚えて、この神の愛に応えて欲しいと思う。

最後に、同じ内容のメッセージがヨハネ福音書にあるので、それを紹介する。ヨハネ福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。