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江南市縁の七人の戦国武将-生駒 利豊 1-

2013-05-02 05:48:09 | 郷土の歴史
《 生駒 利豊 -1- 》





江南市南部には、かつて生駒屋敷がありました。
生駒氏の館です。
私は小学校2年生?の時に、堀に囲まれた中に藪に覆われた生駒屋敷を見学した記憶があります。

そこには、信長が通い、日吉(木下藤吉郎、秀吉)が出入りし、蜂須賀小六などの川並衆がたむろしていました。

日吉は一時期、松下長則に仕えましたが、17~18歳ぐらいで生駒屋敷に戻ってきます。
吉乃から「藤吉郎」という名をもらい、吉乃の下人となり働きます。
これは、当時頻繁に生駒屋敷に出入りをしていた信長の下人となったと同じことです。
そこで認められて、また、吉乃の口利きがあって、信長に馬番として仕えるようになります。

藤吉郎が信長の草履をふところで温めるというエピソードがあります。
こうしたエピソードは、後々創作されたものが多いのです。
清洲で馬番として仕えていた時代のこととして伝わっていますが、私は、この生駒屋敷こそ、信長が藤吉郎を認めるそのような出会いがあったのではないかと想像しています。

いずれにしろ、その舞台・生駒屋敷の主が生駒氏なのです。

江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

天正3年(1575年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・蜂須賀五郎八、家直、長知、利豊、隼人正、大炊佐因幡守、従五位下
秀吉より『小折村1500石、後4000石』賜う
寛文10年(1670年)96歳 逝去


生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。

まずは、吉乃の兄、家長です。

家長は、初めは犬山織田氏についていました。
妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。
信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。
まさに信長創世期の家臣だったのです。

その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。
家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。

利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。
関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。
以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。

ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。

江南市小折にある宝頂山墓地には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。
中央の家型墓地が利豊です。96歳という長寿でした。



6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。
生駒家に養子として迎えられました。
尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。

利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。
初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。
碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。



次回も利勝について紹介します。

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