躰道の公理は「体気」「動功」「制御」の3つで構成されており、これらは躰道家と身の回りの自然や社会を結び付けている。しかし、この3つの定義はなぜか曖昧で混乱を招きやすい。
ここでは「体気」「動功」「制御」の根底にある概念を守りながら、その定義についての通説に残るいくつかの「隙」、ひいては私の考える躰道において芸術が強調される理由に言及する。
まず初めに、「体気」とは、呼吸法として広く認識されている。確かに我々は呼吸しなければ死んでしまうし、また呼吸と血流といった生理的しくみなしに。
というぐあいに、カッリ フリンクマンの論文の内容が一歩一歩進む文章になっている。
*博士号を取得しようとする者の論文は、躰道でも起承転結の文章で、序文だけにとどめるが、柔軟な思考力を合わせたもつ「創造」が垣間見える。躰道の発展には必要な条件です。