タカ長の山ときどきタカ見

「タカ長のタカの渡り観察」の別室です。八十路の坂を登りながら更新してゆくつもりです。

むかしの山語り

2024-11-05 08:49:20 | 山歩きから

    

 

昨日の山歩きのとき広島山稜会の人に会って立ち話をしたことは書きました。

 

その場所はゴール近く、その人たちはスタートして間もなくの地点です。タカ長には面識のない人でしたが、昔から登山をされている人で、共通の話題があることはすぐに分かりました。

 

    

 

この本の著者の一人、山稜会の野間さんの消息を聞くと、健在だとのことで安心しました。

 

そのむかし、野間さんたちが広島山稜会を立ち上げた頃のこと、彼らのグループと広島郊外の水分峡でキャンプ生活を楽しんだことがあります。そのことはお話ししました。

 

他にも話したいことはたくさんありましたが、あの人たちを長時間ひき留めることは出来ません。タカ長としては不完全燃焼でしたが、その他のことは話さないでお別れしました。

 

    

 

と言うことで、以下はタカ長の想像上の会話です。

 

「山稜会と言えば桑原良敏先生の本は私のバイブルになっていますよ。署名もしてもらいました」

 

「それはいつのことですか?」

 

「1997年11月に先生の山荘でピアノ演奏会があった時です。登山家の高見和成に頼まれてお手伝いに行きました。」

 

「そうですか。その演奏会には私も行っていますよ。いい演奏会でした。高見さんも大活躍でしたね。」

 

「山荘に着いたとき『本当に来てくれたん』と言って、高見が人懐っこい笑顔を見せてくれました。それが高見の最後の思い出になりました。」

 

     (翌年の冬、高見和成は大山北壁で遭難死)

 

    

 

想像上の会話はまだまだ続きました。

 

当時は「三人寄れば山岳会」と揶揄された時代で、各職場には山岳会があったようです。タカ長も職場の山岳会に所属しながら、他の山岳会の人と登山したことが多々あります。

 

日本製鋼所の山岳部の人と無茶な登山をして、「馬鹿垂れ、お前らみたいなやつが遭難騒ぎを起こすのだ。」と地元の古老に叱られたことなど、今になって見れば楽しい思い出です。

 

    

 

当時の登山者は若くて、、、、、、、、若いと言うことは皆さんも無茶なこともされているはずで、、、、、、、、そのような山語りをする機会があれば、と思いました。

 

山稜会の野間さんは健在と聞きましたが、腰を痛めて治療中とか。日本製鋼の〇保さんや中国電力の〇隅さんは元気にしておられるのだろうか?

 

皆さんがお元気で、あの頃の山語りをしたら一日くらいあっという間に過ぎるはずです。変わってしまった恐羅漢山のふもとで話すと、ボヤキ節だけで一日が過ぎるかも。

 

やってみたいなぁ、そのような山語り。

 

 

コメント
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