そらとうみ
辰巳泰子
Ⅰ コーヒーの味
自転車を押し上げて坂 子のいない後部座席に風船つけて
扉(と)のうちは牛脂の灼けていた匂い夕かたまけて早仕舞いすと
忘れたき想いのひとに見えしかな独りの客となりて端居す
書くときに感じらるるは母と猫 縦罫の白き紙を広げて
父も妹も弟も知らぬをわれは知るたとえば好むコーヒーの味
あのひとのコーヒーは少し酸っぱくてカレーのルゥはバターが多め
ひとを知るとは感覚の好み知ることぞ知りつつ果たせぬことのくやしさ
美味くなければ不味いと告げて席を立ちわたしにだけはわがままでした
Ⅱ 三つの銅貨
三人子(みたりご)を持ちて終わんぬ遺されし五色の砂と三つの銅貨
ペットボトルに銅貨を入れて花を生く 蚊柱ですら昇れるものを
ははそはのかぶせし鉢の重たくてちらちら懸かる住山の月
ああこれが皇帝ダリヤ彼の日のそらみみ死にて生くるといえり 俊寛
Ⅲ 秋雨
ゆくりなく秋雨 汚れもしない手が傘を畳んで濡れておるなり
雨のテラスに運ばれてゆくスープあり 溶けましたかと女の声す
これの世のテラスに雨を見ておれば肉切り分けている他所の卓
Ⅳ 五十女
わたくしに繊くつながる恋のあり夕かげふふみいたる山茶花
しみしわしらがそのようなものの多さより五十女は表情大事
あれは何の樹 鳥ら騒ぐ樹 彼ら見えずシヴァに歌など捧げているか
あれは何の樹 繁れる木末(こぬれ)なお見えず巻きつくような踊り場にいる
執着は男のほうが強くなりそれならそれでたのし 五十代
少女らが恋をお金で買う怖さ冷たいピザを食べながら聴く
厨辺にすずしろ断てば換気扇こおろぎのような音(ね)をしばし上ぐ
億劫という老いかぶり 東京は十一月の雪を降らしむ
えのころの紅葉しかかる足許のことおしなべて秘め事めきぬ
Ⅴ 機械仕掛け
秋あじさい 急ぎておれば近づかずと急げる日々のことわりに落つ
時じくぞ紫陽花のおおき球ひらくかみなしづきの幹線道路
看板はバーそれとも洞か 階(きだ)を降り冷やしたお茶を口にしている
毀れたらそれきりになるお手洗い時代物なり 故郷を想う
経営不振 犯人探しの部下がおり反省の鋳型職人上司
不安材料一つ一つを滅却す 灰汁取りに似てなぜか汁澄まず
隣れる話 さてはありふる 底意地の底光らせて元気のひと
お悔やみとお祝いなんて重なるさ 機械仕掛けの日々を生く
おっくうになる 日ざらし野ざらし片付いてしまうのを待つというのが決まり
Ⅵ 猫
傘が要る 猫のお墓へゆくときは二人一つの黒めの傘が
猫のお墓へバスを乗り継ぎおみなえし栄えし原はあの日ばかりか
最後の真珠持てば持たるるひとが見ゆ 年頃の子らへことば贈らん
賢いエルゼ猫のように愛され鈴つけられて逐われてしまう
物言わで決めつけられし少女子と童話に探す言葉ひとひら
虐待通報189番促して野分は過ぎき師走も近し
わが猫はなお在るごとし この世のどこかで愛されざる子の手当てしていん
ローゼンハンは嘘つきだから嫌いだと粉砂糖つきし指を払えり
ローゼンハンの嘘寝のベッドすり抜けて寒天のなかこんなに笑う
Ⅶ ホーイコウロウ
おにぎりをたくさん作るにちようび眺めを変えていこうじゃないか
千円のワインに代えて少しのぜいたく 眺めを変えていこうじゃないか
遊びつつ広げ並べし豚ばらのホーイコーロウ 野菜を呼べり
どこ行きたいと吾子に訊かれて数日経ぬ 何にもいらん 元気でおって
健やかであれ終日終生のぞむ親、そのほかのものでありたくはなし
おうどんの具どちいろいろ昆布だしに浸かりてうたでも歌いたげ
刻み揚げどっさり入れたおうどんを啜りたい野の紅葉観ながら
四十ワットの膝掛け毛布一枚で息子と二人あたたまる
鉄漿を塗るも捨てるもしみじみ異界 ささやかな暖とりて想える
四十ワットの毛布二枚に買い足すは点けっぱなしにしない約束
坦々と雪の消えゆく街ぐらし 電気毛布の股火鉢
Ⅷ 定点観測
酒の場の誰かののしる 老いさらばえし人のもの噛む音のありよう
その人は死んだインコを呼ぶらしい舌打ち鳴らしうちならしつつ
ほんとうに呆けたところと呆けたふりしているところ老いかぶり
眺めのほうが変わってゆくさ老いさらばえ定点観測したたかにつづけん
この船はもう進まずに揺り揺られだんだん眺めの変わりゆく船
ときどきは嵐にも遭う老いという動かぬ船にいて弱りゆく
水道職人 ふるい道具のなかから一つ交換用パッキンを選り取る
八十三歳 独居のひとのヘルメット触らじのうすき埃が覆う
スチレンブタジエンゴムざらり溶けだして古いパッキン手のひらにある
毀れた道路そのいくつもの地下をゆき生命線に立ち合ったという
パッキンを一つくれたりこの一つだけでできると言葉を添えて
ゆく道の果てで待つひと 戦争がもし無かったらなどとも言わず
いかれたほうは棄ててねと言いのこしゆく 我慢していたように硬かった
Ⅸ アルバイト
一昨年と思いていしが四年前 療養中とのことわり入れて
アルバイトつづけ家計を支えくれじわりとながし本復までが
男の本分はカネと言い切る二十代 誰彼のようにひらきなおれず
過労死の瀬戸際で逸れ年月の火照りはげしき花陰に吾子
結核から立ち直りしとう宗田少年 がばりと起きる、いじける暇なし
がばりと起きて土とおのれを日に当てつ この頃英語で日記かく
アルバイト講師、火入れの待ち時間 吾子は夜勤の支度していん
三階の窓の向こうはオレンジと水色の帯の電車流るる
なんとなく切れてしまうのもったいない仕事ぐらいでいいんじゃないの
Ⅹ ヴィンカ・ローザ
冬越しを幾たびか経て日日草の今年一つの奇形もあらず
根は濯ぐなと書にあるけれど温かき水もて洗いやる 夏の花
切り戻し花殖やさんと園芸の書にあるけれど数も大事か
見栄えよくしたく幾分切るけれどこれはやっぱり痛いんちゃうか
応急のための用土を作り置く 北風と太陽のちからを借りて
寄せ植えはくるしき土俵、敵(かたき)をば陰にせん根は我が伸ばさん
草落ち葉溜れる辺りいつしらに絹にも近き根方となりぬ
ほったらかして魔法のようにやわらかい草の根方が今年の快挙
ほんのりと熱の伝わる良き土にコガネムシ速やかに棲みつく
虫害につぶさに触るる書のなくて形見のような種子のいくつか
世の人ら仕訳に向かう頃ならん盥に溜めた土に陽を当つ
うちつづく格子模様の影となる此処の団地の北回帰線
Ⅺ 冬晴れ
せめぎ合う根と根見てのち冬晴れのおおふところを歩いておりぬ
「なんとなく夜を行くのは止めたくて」二年参りを断るときに
狭庭だになくて今年も鉢に咲きエボルブルスの青き元朝
ヴィンカ・ローザやエボルブルスのちらほらと貧しき冬の部屋に咲きつぐ
口先まで貧しゅうなったらアカンでぇほんまに貧しい時代やさかい
切餅を揚げて昆布のだしを張る 何の合図かひよどりの鳴く
徒歩(かち)でゆく休日救急診療所 甘酒の幟まぶし元旦
のんのんと気分ばかりはよろしくて空ゆくものへ不安もたげつ
座り込みするのも一手 飛行機にゃ乗らずにゆくというのも一手
反文明をいうにあらねどいかがかな仲間に死ぬなというてやりたし
あれかしと問わずもがなの恋御籤 紅き二日の金時人参
わたし今年もついにはカレーになるのかな お好み焼の具となりて言えり
Ⅻ 空と海
空と海の分かちがたくて居たりけり今年もよろしくお願いします
辰巳泰子
Ⅰ コーヒーの味
自転車を押し上げて坂 子のいない後部座席に風船つけて
扉(と)のうちは牛脂の灼けていた匂い夕かたまけて早仕舞いすと
忘れたき想いのひとに見えしかな独りの客となりて端居す
書くときに感じらるるは母と猫 縦罫の白き紙を広げて
父も妹も弟も知らぬをわれは知るたとえば好むコーヒーの味
あのひとのコーヒーは少し酸っぱくてカレーのルゥはバターが多め
ひとを知るとは感覚の好み知ることぞ知りつつ果たせぬことのくやしさ
美味くなければ不味いと告げて席を立ちわたしにだけはわがままでした
Ⅱ 三つの銅貨
三人子(みたりご)を持ちて終わんぬ遺されし五色の砂と三つの銅貨
ペットボトルに銅貨を入れて花を生く 蚊柱ですら昇れるものを
ははそはのかぶせし鉢の重たくてちらちら懸かる住山の月
ああこれが皇帝ダリヤ彼の日のそらみみ死にて生くるといえり 俊寛
Ⅲ 秋雨
ゆくりなく秋雨 汚れもしない手が傘を畳んで濡れておるなり
雨のテラスに運ばれてゆくスープあり 溶けましたかと女の声す
これの世のテラスに雨を見ておれば肉切り分けている他所の卓
Ⅳ 五十女
わたくしに繊くつながる恋のあり夕かげふふみいたる山茶花
しみしわしらがそのようなものの多さより五十女は表情大事
あれは何の樹 鳥ら騒ぐ樹 彼ら見えずシヴァに歌など捧げているか
あれは何の樹 繁れる木末(こぬれ)なお見えず巻きつくような踊り場にいる
執着は男のほうが強くなりそれならそれでたのし 五十代
少女らが恋をお金で買う怖さ冷たいピザを食べながら聴く
厨辺にすずしろ断てば換気扇こおろぎのような音(ね)をしばし上ぐ
億劫という老いかぶり 東京は十一月の雪を降らしむ
えのころの紅葉しかかる足許のことおしなべて秘め事めきぬ
Ⅴ 機械仕掛け
秋あじさい 急ぎておれば近づかずと急げる日々のことわりに落つ
時じくぞ紫陽花のおおき球ひらくかみなしづきの幹線道路
看板はバーそれとも洞か 階(きだ)を降り冷やしたお茶を口にしている
毀れたらそれきりになるお手洗い時代物なり 故郷を想う
経営不振 犯人探しの部下がおり反省の鋳型職人上司
不安材料一つ一つを滅却す 灰汁取りに似てなぜか汁澄まず
隣れる話 さてはありふる 底意地の底光らせて元気のひと
お悔やみとお祝いなんて重なるさ 機械仕掛けの日々を生く
おっくうになる 日ざらし野ざらし片付いてしまうのを待つというのが決まり
Ⅵ 猫
傘が要る 猫のお墓へゆくときは二人一つの黒めの傘が
猫のお墓へバスを乗り継ぎおみなえし栄えし原はあの日ばかりか
最後の真珠持てば持たるるひとが見ゆ 年頃の子らへことば贈らん
賢いエルゼ猫のように愛され鈴つけられて逐われてしまう
物言わで決めつけられし少女子と童話に探す言葉ひとひら
虐待通報189番促して野分は過ぎき師走も近し
わが猫はなお在るごとし この世のどこかで愛されざる子の手当てしていん
ローゼンハンは嘘つきだから嫌いだと粉砂糖つきし指を払えり
ローゼンハンの嘘寝のベッドすり抜けて寒天のなかこんなに笑う
Ⅶ ホーイコウロウ
おにぎりをたくさん作るにちようび眺めを変えていこうじゃないか
千円のワインに代えて少しのぜいたく 眺めを変えていこうじゃないか
遊びつつ広げ並べし豚ばらのホーイコーロウ 野菜を呼べり
どこ行きたいと吾子に訊かれて数日経ぬ 何にもいらん 元気でおって
健やかであれ終日終生のぞむ親、そのほかのものでありたくはなし
おうどんの具どちいろいろ昆布だしに浸かりてうたでも歌いたげ
刻み揚げどっさり入れたおうどんを啜りたい野の紅葉観ながら
四十ワットの膝掛け毛布一枚で息子と二人あたたまる
鉄漿を塗るも捨てるもしみじみ異界 ささやかな暖とりて想える
四十ワットの毛布二枚に買い足すは点けっぱなしにしない約束
坦々と雪の消えゆく街ぐらし 電気毛布の股火鉢
Ⅷ 定点観測
酒の場の誰かののしる 老いさらばえし人のもの噛む音のありよう
その人は死んだインコを呼ぶらしい舌打ち鳴らしうちならしつつ
ほんとうに呆けたところと呆けたふりしているところ老いかぶり
眺めのほうが変わってゆくさ老いさらばえ定点観測したたかにつづけん
この船はもう進まずに揺り揺られだんだん眺めの変わりゆく船
ときどきは嵐にも遭う老いという動かぬ船にいて弱りゆく
水道職人 ふるい道具のなかから一つ交換用パッキンを選り取る
八十三歳 独居のひとのヘルメット触らじのうすき埃が覆う
スチレンブタジエンゴムざらり溶けだして古いパッキン手のひらにある
毀れた道路そのいくつもの地下をゆき生命線に立ち合ったという
パッキンを一つくれたりこの一つだけでできると言葉を添えて
ゆく道の果てで待つひと 戦争がもし無かったらなどとも言わず
いかれたほうは棄ててねと言いのこしゆく 我慢していたように硬かった
Ⅸ アルバイト
一昨年と思いていしが四年前 療養中とのことわり入れて
アルバイトつづけ家計を支えくれじわりとながし本復までが
男の本分はカネと言い切る二十代 誰彼のようにひらきなおれず
過労死の瀬戸際で逸れ年月の火照りはげしき花陰に吾子
結核から立ち直りしとう宗田少年 がばりと起きる、いじける暇なし
がばりと起きて土とおのれを日に当てつ この頃英語で日記かく
アルバイト講師、火入れの待ち時間 吾子は夜勤の支度していん
三階の窓の向こうはオレンジと水色の帯の電車流るる
なんとなく切れてしまうのもったいない仕事ぐらいでいいんじゃないの
Ⅹ ヴィンカ・ローザ
冬越しを幾たびか経て日日草の今年一つの奇形もあらず
根は濯ぐなと書にあるけれど温かき水もて洗いやる 夏の花
切り戻し花殖やさんと園芸の書にあるけれど数も大事か
見栄えよくしたく幾分切るけれどこれはやっぱり痛いんちゃうか
応急のための用土を作り置く 北風と太陽のちからを借りて
寄せ植えはくるしき土俵、敵(かたき)をば陰にせん根は我が伸ばさん
草落ち葉溜れる辺りいつしらに絹にも近き根方となりぬ
ほったらかして魔法のようにやわらかい草の根方が今年の快挙
ほんのりと熱の伝わる良き土にコガネムシ速やかに棲みつく
虫害につぶさに触るる書のなくて形見のような種子のいくつか
世の人ら仕訳に向かう頃ならん盥に溜めた土に陽を当つ
うちつづく格子模様の影となる此処の団地の北回帰線
Ⅺ 冬晴れ
せめぎ合う根と根見てのち冬晴れのおおふところを歩いておりぬ
「なんとなく夜を行くのは止めたくて」二年参りを断るときに
狭庭だになくて今年も鉢に咲きエボルブルスの青き元朝
ヴィンカ・ローザやエボルブルスのちらほらと貧しき冬の部屋に咲きつぐ
口先まで貧しゅうなったらアカンでぇほんまに貧しい時代やさかい
切餅を揚げて昆布のだしを張る 何の合図かひよどりの鳴く
徒歩(かち)でゆく休日救急診療所 甘酒の幟まぶし元旦
のんのんと気分ばかりはよろしくて空ゆくものへ不安もたげつ
座り込みするのも一手 飛行機にゃ乗らずにゆくというのも一手
反文明をいうにあらねどいかがかな仲間に死ぬなというてやりたし
あれかしと問わずもがなの恋御籤 紅き二日の金時人参
わたし今年もついにはカレーになるのかな お好み焼の具となりて言えり
Ⅻ 空と海
空と海の分かちがたくて居たりけり今年もよろしくお願いします