皆さん、こんにちは。
当館に所蔵しています、ユネスコ世界の記憶(世界記憶遺産)に登録されている山本作兵衛翁の炭坑記録画の意義のひとつは、明治中期から昭和戦中期にかけての『筑豊の炭坑の公的記録にない細かな様子が文章と合わせて描かれている』ことなのですが、もうひとつが、『当時の庶民の生活や考え方、風俗、文化、芸能、歴史』などが絵の中にちりばめられていることです。
その一例として、二枚の墨絵に出てくる「明神坂」という地名の話題をご紹介します。
田川市石炭・歴史博物館/田川市美術館発行の「炭坑(ヤマ)の語り部・山本作兵衛の世界~584の物語」という図録の中で、図録番号【166】「昔のヤマ人7(二日市温泉まで入湯患者を運ぶ)」、ならびに【181】「ヤマと狐(やけど患者の輸送)」と題された絵です。
※なお、山本作兵衛コレクションの絵は、全て特設サイト『山本作兵衛氏 炭坑の記録画』でご覧いただくことができます。
バスも鉄道もまだ便の良くなかった明治の頃、ヤマ(炭坑)のガス爆発事故で火傷を負った後やや治りかけた患者を、湯治のために飯塚から二日市の武蔵温泉(現在の二日市温泉)まで運ぶために、近所の坑夫仲間が戸板で作った担架に乗せてこの「明神坂」を上り、八木山【やきやま】の急な峠を越えたという内容です。
八木山峠を越えてのち、篠栗、須恵、宇美、太宰府、二日市とたどれば約30kmもの行程となります。
これら二枚の絵は、狐が火傷のかさぶたを好んで食べるという当時の迷信を描いています。
狐に夜襲われることを恐れながらの難行苦行の道中だったそうです。
狐に関連した他の絵の脇書きに、明治時代の筑豊には狐がウヨウヨいたと作兵衛翁は書いていますが、私も八木山峠の頂上や麓で狐を見たことがあります。
上の写真は、『国道201号線』の八木山峠中腹の展望台から東方向の飯塚市街の眺めです。
遠景の右上に英彦山、その左やや下に「筑豊富士」と呼ぶ人もいる住友忠隈炭坑のボタ山も見えます。
福岡県東部の京築地方から田川・飯塚を経由して福岡に向かう場合、現在では、仲哀【ちゅうあい】峠を抜けて京築から田川に入り、田川から烏尾【からすお】峠を越えて飯塚に入り、さらに八木山峠を越えて、篠栗を経由して福岡へと向かう『国道201号線』が通じています。
ですが、この国道が整備される以前は八木山峠を、旧街道の「明神坂」で越える必要がありました。
この「明神坂」は、関ケ原の戦い(1600年)の戦功により、徳川家康の命で豊前から福岡へ加増転封【国替え】された「黒田如水・長政親子」が通る際に難儀したため、黒田藩の藩祖で父の「黒田如水【官兵衛】」が指揮して改修したものです。
当時の地元の人は、難所の道路整備を喜び、如水のことを「明神【威厳と徳のある神のこと。転じて人物のこと】」になぞらえ、この名で呼ぶようになったとか。
国道が出来たことで使われなくなり、寸断されて、よくわからなくなっている「明神坂」を今回、探索してみました。
その2に続きます。