ひふみ神示 地震の巻は日月神示では二曰んの○キと書かれています。
なぜ二曰んが地震なのかわかりにくいですが、
扶桑(二三)の巻を重ね合わせて考えますと、
五十黙示録 第01巻 扶桑の巻
第二帖
世の元、○の始めから一と現われるまでは ○を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水(一と三)のドロドロ(十渦十渦)であったぞ、その中に五色五頭の竜神(渦巻く二ん)が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ、今の人民は竜神と申せば、すぐ横を向いて耳をふさぐなれど、マコトのことを知らせねばならん時ざから、ことわけて申してゐるのぞ。竜神とは渦巻く神(理 誠の神)であるぞ、五色の竜神とは国常立尊の御現われの一(ヒトツ)であるぞ。
第八帖
平坂の 岩戸(言答)ひらけむ 音のきこゆる。
神に怒りはないのであるぞ、天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。太神は愛にましまし、真にましまし、善にましまし、美にましまし、数にましますぞ。また総てが喜びにましますが故に怒りはないのであるぞ、若(も)し怒りが出た時は、神の座から外れて了ふのであるぞ。救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられると知らしてあろが、その東とは、東西南北の東ではないぞ、このことよく判りて下されよ。今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、ウシトラとは東北であるぞ、ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神ぞ、始めの始め、終りの終りぞ、弥栄の弥栄ぞ、イシヅヱぞ。
扶桑の巻には、
竜神とは、渦巻く二ん。
救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられる。
と書かれています。
それは、
火と水(一と三)のドロドロを二になれと渦巻く竜神様、
ヒムカシとは東より日向しをあらわしている
ように感じます。
二日んの○キとは、ウシトラコンジンに向かう竜神。
天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。
地の神が怒ったのではなく、
智の神が目に見えぬ世界を示す道を示すものであると。
地震の巻、二日んの○キは、目に見えぬ世界の理を示す帖と感じます。
地震の巻 第1帖の画像を見ると太陽と太陰それを結ぶ3つの竜神さま、それと5つの竜神さまに見えます。
一番上の太陽は、はじまりに強く輝き、二番目の太陰は終わる前に強く輝く。
その二つの線を結ぶ渦巻きを三番目の線があらわしている。
三番目までが、たかあまはらを象徴し命を産み出だし、原子の元を産み出だす。
4番目からは国常立尊のあらわれである、
火と水から生まれる五色五頭の竜神のハタラキを示し、
5番目が日のハタラキを産みだし、
6番目は月のハタラキを産み出す。
4番目が日と月のハタラキを地に産みだし、
一番下の少し離れた渦巻きが、すべての無限の段階の命に地のハタラキを結んでいる。
扶桑の巻
十五帖
百不足(モモタラズ) 八十隈手(ヤソクマデ) いまひらかんときぞ。
天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は我(ガ)が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民少ないぞ、今に昇り降りで急しくなり、衝突するものも出てくるぞ、他人におんぶされたり、車に乗せられてゐた人民たちよ、もうその時は過ぎてゐるのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地をふみしめよ、大地の気が身内に甦るぞ。
日月神示では8通りに読むことを求めています。
日月神示の解読として
数字とカナで書かれている帖から
直線と曲線で表された地震の巻をひもとくことに
8通りのヒントがあるのでは?
2013年は少しずつそんなことができるといいな。
目に見えぬ神の心にかようこそ
人の心のまことなりけれ