スーフィズムとは、イスラム教の神秘主義哲学
精神世界と物質世界との間に差異はないと信じる。
彼らはまた、我々が精神世界を経験し得ないのは、我々を完全無比な精神世界から遮断する「秘密のヴェー ル」があるからだと考える。だから彼らは、このヴェールを持ち上げ、地上にありながら神と一体になろうと努める。そして、スーフィズム主義者がこれを実践 する一つの方法こそが、世界の描写においてアラベスクを用いることである。
反復する幾何学文様は
可視的物質世界を超えて広がる無限のパターンを現す
産み出されたありのままを象徴
イスラム教の核心は、統合性であり、キリスト教を性格付ける構築的分離
と対照的に異なる
ムスリムの世界はきわめて融合的
アラベスク の形成の原理は科学と数学が普遍的であること
最善の芸術様式とは、自然の背後にある秩序と統一性を表現するもの
物質世界の秩序と統合は、精神世界の影にすぎない
日月神示では融合と分離の構造について
ひふみ神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んの○キ)
第八帖 (三八五)
より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し 一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。
総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのであ る。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。 物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から 永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。
第九帖 (三八六)
(秘)一二三(身)がよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、(秘)一二三(身)の渦をなす。神秘の立場よりすれば、秘は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、神秘は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。力がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する。
地上人は地上物質界のみの 立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。而して、尚地上人は死後の世界に通じなければならぬ。死後 の世界との関連により複数的悪善におかれる。善悪善の立場におかれる場合が多いために、地上に於ける司宰神としての力を自ら与えられるのである。
常に、動き栄えゆく、大和の渦を中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心をまことの神とする立体的うごきの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神の歓喜である。惟神の歓喜は総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。
アラベスク
ヴェールをすて
向き合う中
そのイシが落ちるとき
産まれいずるもの
その久美行く
循環
その手に落つる
理と波と漬くね
それが
現ぶる
随神
それはそなたの価値にはよらず
脈打つ
善や悪は存在のあかし
相対の位置はどこにあるや
随神は
この時節で何を産み出だすか
全てがその影のなか
存在は影を産みつづけるもの
実在は何か?
自らの心と向き合うこと
至るまでの道
アラベスク
精神世界と物質世界との間に差異はないと信じる。
彼らはまた、我々が精神世界を経験し得ないのは、我々を完全無比な精神世界から遮断する「秘密のヴェー ル」があるからだと考える。だから彼らは、このヴェールを持ち上げ、地上にありながら神と一体になろうと努める。そして、スーフィズム主義者がこれを実践 する一つの方法こそが、世界の描写においてアラベスクを用いることである。
反復する幾何学文様は
可視的物質世界を超えて広がる無限のパターンを現す
産み出されたありのままを象徴
イスラム教の核心は、統合性であり、キリスト教を性格付ける構築的分離
と対照的に異なる
ムスリムの世界はきわめて融合的
アラベスク の形成の原理は科学と数学が普遍的であること
最善の芸術様式とは、自然の背後にある秩序と統一性を表現するもの
物質世界の秩序と統合は、精神世界の影にすぎない
日月神示では融合と分離の構造について
ひふみ神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んの○キ)
第八帖 (三八五)
より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し 一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。
総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのであ る。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。 物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から 永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。
第九帖 (三八六)
(秘)一二三(身)がよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、(秘)一二三(身)の渦をなす。神秘の立場よりすれば、秘は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、神秘は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。力がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する。
地上人は地上物質界のみの 立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。而して、尚地上人は死後の世界に通じなければならぬ。死後 の世界との関連により複数的悪善におかれる。善悪善の立場におかれる場合が多いために、地上に於ける司宰神としての力を自ら与えられるのである。
常に、動き栄えゆく、大和の渦を中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心をまことの神とする立体的うごきの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神の歓喜である。惟神の歓喜は総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。
アラベスク
ヴェールをすて
向き合う中
そのイシが落ちるとき
産まれいずるもの
その久美行く
循環
その手に落つる
理と波と漬くね
それが
現ぶる
随神
それはそなたの価値にはよらず
脈打つ
善や悪は存在のあかし
相対の位置はどこにあるや
随神は
この時節で何を産み出だすか
全てがその影のなか
存在は影を産みつづけるもの
実在は何か?
自らの心と向き合うこと
至るまでの道
アラベスク