朔旦冬至に丸山龍神様にお参りしました。
いただいたのは
温かな陽とジェット気流のような風雪の渦
太陽と風の束
日月神示 地震巻 第八帖を連想します。
ひふみ神示 地震の巻
第八帖 (三八五)
存在は最初からのものではない。それらの元をなす まことの神が歓喜していた、その 神が生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、更に生み出され弥栄する 。その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。また、生命の大歓喜として湧き出ている。新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れも まことの神の形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなる。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。
新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。只考えたり意志するのみでは萌え出でない。生命しない。只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。
新年のご来光
同じように日と風雪でした。
海面の上に厚い雲に待たされ帰りの車の中からご来光
帰り道の途中からものすごい吹雪
太古の昔は、冬至が一年の始まりとされていた。
なんとなく朔旦冬至をネットで調べていると
朔旦冬至は古代日本の国家的行事
持統天皇は、この19年7ヶ月に一度の“蘇りの象徴”とされる「朔旦冬至」に、国家の弥栄を願い盛大な祝宴を催したと言われています。
19年7カ月に一度の蘇りの象徴
神宮の古伝では神宮式年遷宮は、天武天皇の御発意により、次の持統天皇4年(690)、第1回の式年遷宮が内宮で行われました。以来、戦国時代に中絶するという事態に見まわれながらも、1300年にわたって続けられ、平成25年秋には第62回の神宮式年遷宮が古式のままに行われました。
『日本書紀』は、持統天皇を「深沈で大度」、「礼を好み節倹」、「母の徳あり」
と記されるほどの古代からの智を持つ天皇
日と月の同調は蘇りを産む
御嶽山の噴火で首が飛んでしまった 国常立尊像
すなおに感じたのは、 国常立尊の姿はこのような形だろうか?
古への大地を産出したイメージが何も感じられない。
怒りにふれてもしかたないかな?
それは現代の感覚で想像した銅像
時代の感覚から悪とされている八岐大蛇
スサノオノミコトが首を落としたとされる 八岐大蛇
日月神示では天が下の罪穢れを一身に背負った神
日月神示では 国常立神は龍神の姿も一つの現れとしています。
時代の感覚から鬼門に進んだことを悪の首を取ったとした。
火と水の渦の中から 国常立神が蘇ってくる
日月神示では国津神である出雲の神を大切に祀るよう示されています。
今年の駅伝では新たなる山の神
神野 大地
国常立神である大地を拝めと語りかけるように