ラーは
意識とは集合した存在
個人を分離した存在とすることが不思議な制約
現代心理学を始めたフロイドは
超自我、自我、無意識が心にあるとし
ユングの思考では、無意識の奥底に魂として集合無意識がある。
現在日常で、魂に心の針がむくことがあるだろうか。
ユングは東洋的自我と西洋的自我の統合が現代の課題としています。
現代未解決問題取扱所のホームページにわかりやすく掲載されています。
しかしユングが行なった考察の重要な点は、差別的な概念による比較ではなく、違いの概念によって東洋と西洋を比較して見せたことにある。現代の先進国の人々は何事も優劣によって判断することを強いられ、そのように洗脳されてきたので、単なる違い、あるいは多様性の現われとしての違いという捉え方ができなくなっているように思う。 ではユングの言う東洋人(特に日本人)と西洋人の心の構造の違いについて具体的に見ていくことにしよう。ここでも彼は両者の優劣については言及していない。単に違いを明確にしているだけだ。
ユングの言葉には自我(ego)と自己(self) とがある。自我は意識の中心であり、外界を認識し、判断し、対処の方法を見つける働きをしているとされる。一方自己は意識と無意識を含む心全体の中心であり、意識と無意識の対立や、思考と感情、また男性的な要素(アニムス)と女性的な要素(アニマ)の対立などの統合を行なっているものとされる。
西洋人は自我を中心とした統一体としての意識(ego)を持っている。これは日本人から見ると様々な形に現われて見える。例えば非常に論理的に見え、はっきり自分の意見を言える人間に見え、物事の理解が明確であるように見える。しかしこれは論理性を色濃く持つ文化を背負い、自我を中心とした意識構造を持ち、個人があくまで社会の単位だとする教育を受けてきた人たちに備わったもので、そこにはいくつか問題もある。
論理を最優先させた西洋人は機械文明の基礎を作り、その道の果てに環境汚染・地球破壊を招いた(「意識」の項を参照)。100年も前に論理の抱える矛盾が論理学で証明されたにも拘(かかわ)らず、その道を進むことしかできなかったのは、彼らが東洋的な観点を持ち得ず、それを学ぼうとしなかったことが大きな理由の一つと考えられる。
また自我(ego)を中心とした意識構造は極端な個人主義へと突き進み、『心の重なり』を持たない彼らは他との対立を余儀なくされた。他と対立すれば勝たねばならず、したがって他人も他国も自然も彼らにとっては支配の対象となった(「意識」の項を参照)。これだけが原因とは言えないが、世界に無数の対立が生み出されたのは、こうした西欧的な考え方が世界に蔓延したことが一つの原因だと思われる。
一方東洋人(特に日本人)は意識そのものに、言い換えれば心の表面に自我(ego)を持つのではなく、意識と無意識を含めた三次元的な心の中心に自己(self)を持っている。そしてこの自己(self)は意識と無意識を統合する役目を担っていると考えられている。そして長い間、欧米的な個人主義に穢されることがなかったので和の精神が育った。それは心の重なりを持つ日本人が、対立よりも相互扶助の方が容易に生きやすいことを経験的に知り、それを文化として育んだからだろう。
こうした言い方をすると国粋主義のような危険な考えと見做されるかも知れないが、そういう意図はない。逆から見れば個人性を薄めすぎたために、国民全体が簡単に纏(まと)まることも容易となり、それが間違った指導者のもとに一つの行動に出れば、第二次世界大戦時のような、一億玉砕といった馬鹿げた方向に暴走することにもなる。また欧米人と違って個人と神ではなく、人間同士の縦横の繋がりで成り立っている日本人の人間関係は、上官の命令は絶対的なものとなり、上に立つ者が命じればどんな残虐なこともしてしまう結果にもなる。
このように東西の心の構造には一長一短がある。しかし別の視点から見ると、日本的な和の精神(他人に対しても自然に対してもそうだが)は、もしそれが今も保たれていたとすれば、現在のような弱肉強食的な考えを是とする世の中にはなっていなかっただろうと思う。しかし結果は逆で、欧米的な対立の概念が世界に根を張ってしまったため、今のような敵対と抗争という世情を招いてしまったのだと思う。
私は日本人は欧米文化を崇拝したり、ただ猿まねのように真似るのではなく、日本人が本来持っていたはずの『調和の文化』をもう一度思い出し、再構築して、この貴重な文化を誇りを持って世界に発信すべきではないかと思っている。
欧米文化によって作られ、世界に蔓延した競争原理を基本とした現代社会は、今や破綻寸前にある。そしてその中で生きている人間たちも効率一辺倒の社会に、もはや窒息状態にある。本来の日本人や平和の民といわれるホピ族(ネイティブ・アメリカン)の考え方が世界に浸透し学ばれるようになれば、さまよえる人類にとって一筋の光明となるになるのではないだろうか。そしてそれを行動に移す人々が多くの国に現われてくれば、これは夢物語ではなく、実際に世界を変える力になるだろうと思う。
個人の意識を結ぶのが神話であり
集合意識は6次元の現れ
集合無意識
ユング(1856~1939)は臨床医学の現場で様々な神経症やヒステリーの患者と接した。そして彼らの症状がその背後にある類型的な何かから発していると感じた。彼は患者の症状(いわば状況証拠)から類推して、その類型的なものを元型と名付けた。そしてそうした元型が潜む心の領域を集合無意識と名付けた。彼は集合無意識がフロイトの言った無意識のさらに奥にある、人類全体に共通する心の層であると考えた。
さて集合無意識に潜むいくつもの元型の表れを、ユングはしばしば神話の中に見ようとした。すなわち神話を、元型を表現する一つの形態だと考えた。古代においては民族の出自および民族のアイデンテイテイー(自己証明)を保証するものとして神話は機能していた。しかし世界中の人々が様々な知識を共有できるようになり、さらに宗教が世界を席巻するようになってからは、神話はその本来の機能を失い、単なる民間伝承的な地位に落ちてしまった。
とはいえ神話が何千年という間、立派に機能してきたのは事実だ。しかしそれが機能していた時代においても、機能を失ってからの時代においても、神話の発生のメカニズムは解かれることなく、謎のままにされてきた。しかも人類が長い間、文学、絵画、哲学などによって追い求めてきたものが、遙か古代の人類の文明の発祥時点ですでに神話の中に語られているという事実を前に、神話学者たちは頭を悩ますばかりだった。
ユングの登場によって、これら謎とされてきた神話の発生について、別の角度から光が当てられるようになった。人類、あるいはそれを超えて生物一般に共通する心の層という概念は、様々な心の神秘に切り込む強力な武器となった。半世紀以上にわたって彼の考えは、神話の背景に関する研究や精神医療現場での応用、人間理解のための方法論として一定の成果を上げた。
とは言っても神話自体に明確な解明がもたらされたわけではない。確かに深層心理学的に解釈可能なものもあるが、かなりこじつけ的な解釈しかできないものもある。しかも最近は神話について全く別の解釈も登場してきているので、ユング的な解釈は若干色褪せつつあると言える。しかし彼の提唱した集合無意識とそこに潜む元型は様々な解釈が可能であり、用い方によっては今もなお有効に機能すると考えられる。
これについて私の考えを言っておこう。『予言』の項でも述べたが、集合無意識はアカシック・レコードの一つの局面を切り取ったものではないかと思われる。ユングが辿り着いたのは人類共通の心の層であって、彼は民族や環境が違っても、人間は同じ心象風景(すなわちイメージ)を持つことがあると言っている。けれども同じ心象を持つというのは集合無意識によるのではなく、異なった次元にあるアカシック・レコードと繋がったためだと考えれば、より普遍的に解釈できることになる。ルパート・シェルドレイクの形態形成場にしてもプラトンのイデアにしても、それらの概念はこの宇宙の全ての情報を内包しかつその宇宙と共に変化・進展していっているアカシック・レコードの、ある局面を言い表したものだと考えられる。
古代インドの聖者や中国の仙人、歴史上の偉大な宗教指導者や予言者たちも、ある局面としてだが、このアカシック・レコードと繋がることによって過去や未来を見ることができたのではないだろうか。現代のあまたの予言者や霊能者、占い師やチャネラーといった人たちも、何らかの形でこのアカシック・レコードに繋がったのだと思う。しかし気を付けなければならないのは、アカシック・レコード自体が多次元的であり、また変化・進展していくものなので、その全体像を見るのは難しいということだ。またそれを見る人の波動の質の良し悪しによっても、大きく変わって見えることもあると思われる。
最近書物で聞きかじった人も、ユングを崇拝する人も、集合無意識を一つの固定された概念として受け止めているかもしれない。しかし異次元も含めたこの宇宙で、固定されたものなど一つもない。原子核の中を見てもそれを構成する素粒子は常に動きまわっている。地球は自転しながら太陽の周りを回っているし、太陽も自転しながら銀河の周りを回っている。そして銀河自体も回転しながら超銀河の中心を回っている。ガリレオは天動説に反対して地動説を唱えたが、実際は天も地も動いていて、表現するなら『全動説』というのが正しいと思う。こうしたことを考えれば、集合無意識(即ち私の考えではアカシック・レコード)も多次元的に動き、変化していっているわけで、そういった視点を持たなければ真の姿は見えてこないと思う。
私は宇宙は多次元的な構造をしており、それぞれの次元が常に変化しつつあり、かつ異次元同士の関係も変化していっているのではないかと思っている。さらに言えば、様々な次元を含む宇宙全体が、変化するものを抱えながらそれ自身変化していっているのではないかと思う。そしてもしこの宇宙が神なるものの展開だとすれば、神さえも変化していっているのではないだろうか。したがってこの宇宙においては、留まろうとするもの、変化を拒否しようとするものは如何なるものも凋落の憂き目に会うだろう。何故なら変化・進展こそが宇宙の本質であり、その果てにある歓喜というターミナルに、生きとし生けるものを導くのが宇宙の意思だと思うからだ。
ユングの集合無意識は人類に共通する一つの概念として提示され、我々のものの見方を変えてくれた。しかし我々はそれを固定的なものとして受け止めるのではなく、アカシック・レコードを含めた宇宙全体の変化の概念へと進展させることができれば、人類がこの何千年来持ち得なかった新たな視点を獲得することになるのではないだろうか。
<深層心理学の項 終わり>
普段感じていたことが書かれていましたので紹介したくなりました。
今年に入ってからブログに掲載しようと思う画像や、日月神示の内容が書かれた記事が内容をイメージする時にブログの人気記事の上位にあり、ブログを読んでいただいている方々に感謝しております。
第五帖 (三八二)
全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。
その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。
本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。
悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。
善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。
故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。
生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである