青函トンネルの北海道側出口の近くにある大千軒岳登山口
積雪量が多く残雪で車が進めず
歩いて進むと30m以上ありそうな杉とトドマツの林
稟とした空間が広がります
住居跡のある入り口付近も、カラマツの大木が形よく
雪解け水が道を流れ
大きな流れへ
千軒を流れる川は、千軒石や貝などの化石が川原で取れ
千軒の歴史には隠れキリシタンと砂金があり、福島町の紹介に
禁教令のしかれた日本本土にいられなくなったキリシタンは,砂金掘りの群れに紛れて蝦夷地へ流れてきました。
一方,松前藩主は「蝦夷は日本にあらず」と、明言していたといいます。
ですから、イエズス会のデ・アンジェリス、カリワーリョなどの神父も公然と大千軒岳の麓に生活していました。
寛永14年(1637年)の島原の乱以後、徳川家光は、キリシタンをなくすように指令を出しました。
そして、幕府の圧力に耐えきれなくなった松前藩は106名のエゾキリシタンを寛永16年に処刑したのです。
当時の蝦夷地にいた和人の人口は約一万人でしたから、全人口の約1%が、殺されたわけです。
そして次の年、寛永17年6月12日、駒ヶ岳が大噴火をしました。
この噴火では、噴火湾に大津波が起こり、対岸の有珠山付近のアイヌ人部落が壊滅。700名もの犠牲者を出したといいます。
さらに、それまで元気だった松前藩主公広が突然の病気にたおれ、翌年の7月8日に息を引き取ります。
誰が言うともなく、キリシタンの祟りがささやかれ、最盛期には千軒もあったという砂金掘り人足の家も激減していきました。
噴火後は砂金の産出もなくなり、ために、千軒金山は完全に廃絶してしまったと言われています。
しかし、もしも本当にキリシタンの呪いで駒ヶ岳が噴火したなら、被害にあったのがなぜ無関係なアイヌ人なんでしょうね。
と因果を疑問視していますが
噴火湾の由来には
駒ヶ岳の噴火(1640年)から、有珠山噴火(1663年)樽前山噴火(1667年)が津軽まで鳴動したとあります。
3つの火山は、わずか27年のあいだに大噴火を連ねた。
このあいだにアイヌに天然痘が蔓延、
構図を広げれば、実はこのころはマウンダー小氷期と呼ばれる気候の寒冷期。
蝦夷地はもとより列島各地で凶作や飢饉が頻発した時期でもあった。
そのマウンダー小氷期が過ぎた、寛保元年(1741年)
寛保の大津波 渡島大島突然噴火
一九日午前四時頃に約10メートルの大津波が押し寄せ、松前弁天島から西は熊石まで約110Kmにわたり大きな被害をもたらしました。
わずか百年の間に噴火、津波、疫病、異常気象に、つい千軒の森から連想してしまいました
権力者を面白おかしく描く大河ドラマより面白いと思うのだが
千軒の麓の川原では穏やかな風景
旧石器時代の日本一古いお墓や環状列石があり
いにしへの人も同じ山を眺めていたという気がするのだが