設計事務所の仕事はただ単に家の設計をするだけでなく建物の予算から工事の監理まで時としては口を出さねばならない。今回の仕事は工事金額の査定まで徹底的に取り組む契約ですので真剣勝負。
この建物の外壁(サイディング)を張る工事を或る工事屋さんに見積もってもらったら140万円超える金額が出てきた、
以前にこれより少し小さい建物で85万円程度で出来たので少し高いと思い他の工事屋さんに見積もりを頼みましたら110万円でOK.との事です。同じ建物で同じ材料で30万円の差は一体何だとと不信を抱く。気分は重かったが最初に頼んだ工事屋さんにわざわざ出向いて丁重に今回の工事はお断りをした。するとそこの社長さんはその日の午後に我が事務所に来られて「従業員(社長の息子)が既に材料をメーカに頼んでしまったので予算に合すので是非工事をさせて下さい」と懇願される。
日頃心穏やかな天狗さん、むかっと、きたが表情に出したら大人げ無いので、にこっ
と笑って「未だ契約もしていないのに既に材料を頼まれたのなら他の工事で使って下さい」とお断りをした。
最初から精一杯の金額で見積もりをするのが常識、こんな不景気な時に真剣さが足りないのでは。金額だけの問題ではない、真剣さと誠意の問題なのですが。予算に合すと云われてこの段階で私が工事屋さんを元に戻したら天狗の道を踏み外す事になってしまう。信頼は工事費が安い、高いだけの問題ではなく、責任感と誠意の積み重ねが天狗道と心得ておるのですが、すぐに誘惑されそうに成るところがまだまだ修行の足りない未熟な処です。
先日本を読んでいたらドッキとする内容に出くわした、この文章を読んで如何に受け取るか。
生きる目的は幸福だとパスカルも言う。自殺するのも楽を願っての事であり、すべての人の営みは、幸せの外にありえない。
だが、私たちの追い求める喜びはすぐ移り変わってゆく、苦しみや悲しみに変わり、崩壊し、無くなってしまう。結婚の喜びや、マイホームの満足はどれだけ続くだろう。妻はいつ病気や事故で倒れ,惚れた腫れたは当座のうち、破局の憂き目に遭うかも知れない。
柘植で出来たみろく苑の三重塔
夫を亡くして苦しむ妻、妻を亡くして悲しむ夫、子供に裏切られて激怒する親、最愛の人との離別や死別。世の中は悲しみや嘆きの声に満ち溢れている。生涯掛けて築いた家も、一夜の内に火事で燃えてしまい、昨日までの団欒の家庭も交通事故や災害で「まさか、こんな事になろうとは・・・・・」。天を仰いで茫然自失。辛い涙であふれているのが現実です。
菰野富士と散り初めの桜並木
揺れ動く川の流れの様に、今日あって明日なき幸福は、薄氷を踏む不安が付きまとう。病気になれば妻子が介抱してくれる。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬ時には何一つ頼りになるものはない。一切の装飾ははぎ取られ、一人行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへ私は行くのだろう。
現実を直視すると生きる望みが無くなる、しかし現実はこの通りです。形のある、目に見えている物だけを追い求めた人生はこの様になるのでしょうか。この答えは如何に
。
当然ですが上の写真と文章とは関係ありません。又この文章は蓮如上人の御文章の一部です。
最近の天狗さんのブログは難しいぞょ、ハッハッハァ
今日はお釈迦さんの誕生日ですが意外と知られていないのでは無いでしょうか。クリスチャンでもないのに何時の時代からか日本の風習としてキリストの誕生日はクリスマスだと云ってケイキを買ったり、ふだんより少し贅沢な食事をしたり、商店はクリスマスセールをします。キリストさんはあの世でどう思ってみえるのでしょうかね。
法隆寺の釈迦坐像
仏教では禅宗の方は花祭と云ってお釈迦さんの誕生を祝うそうです。日本の家庭には仏壇が有って一応は仏教徒の方が多くみえます、しかし最近はマンション住まいが増え、又新しく家を建てても仏壇を入れる人は殆んど居なくなりました。仏壇の意味が分からないからしょうが無いでしょうし、家に死者が出ていないので祀る必要が無いと思って見えるのではないでしょうか。
真剣に仏教の勉強をし、そこに携わる方にお叱りを受けるかも判りませんが私の素人考えでは今の仏教は葬式仏教に成ってしまったと思っています。人が無くなり葬式をする時はお寺さんにお世話になり、何年かすると法事をしてお坊さんに来て頂き、何も意味の判らないお経をあげて、御馳走を食べてお返しの粗品を頂いて行事は終わり。
御釈迦さんは何を云いたかったのか、親鸞聖人は何を伝えたかったのか、弘法大師さんは何を私達に教えたかったのか殆ど判りません。法事が終った時、お坊さんが一言でも良いので法話をされたらもう少し仏教になじめれたと思うのですが。
法隆寺にある釈迦涅槃像
私も人生の最終コーナを廻り、自分の生き方について考えますと仏教でも他の宗教でも真理はすべて自分はどう生きたら生き甲斐が有るのかを説いている事が伺えます。仏教も死後の世界だけを説いているのでは無く、如何すれば如何に今を活き活き生活が出来るかを説いているのです。こんな素晴らしい教え、真理、哲学、そして教えを生かす事によって生ずる御利益が世の中に伝わらない事がお釈迦さんの云われる末法の時代なのでしょうか。
今日は素晴らしい快晴、入学式日和でした。桜も満開です、私の母校、子供達もお世話になった桑名市立多度南小学校も今日は入学式でした。
わずか10名の新入生です、三月に卒業した六年生は11名でしたので又一名減りました。
父さんお母さん揃い組の父兄の方もみえます、子供さん以上に父兄の方は緊張して力が入っている感じです。子供を思う親心は神代の時代から変わらないものですね。
御免なさい、一人だけマイクの陰に隠れてしまいました、人生最初の学生生活、一番物心の付く歳、担任の先生はベテランの女性の先生です、私の入学した時も美人の優しい先生で勉強が手につきませんでしたので私は当時から何時もビリの成績でした。しっかり勉強をし立派な大人になる礎を作って下さい、
ピカピカの一年生さんへ。