遊就館を拝観し次の二つの話に涙しました。
一つめは別れから50年以上も経った妻が秋田県二ツ井町が主催した1995年2月14日バレンタインデー「第1回日本一心のこもった恋文」大賞に輝いた柳原タケさんが書いたものでした。
柳原淳之助氏は、娘の緋呂子さんが生まれた直後、100日目に招集命令が届き出征。昭和14年9月に中国山西省で27歳の母と娘を残して戦死享年32歳。
【娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか。
私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。
お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。
春のあでやかな桜花、夏なまめかしい新緑、秋ようえんなもみじ、冬清らかな雪模様など、四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。
もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。】
柳原タケ
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二つ目は奇跡のヤシの実の話です。
31年前に流したヤシの実の手紙が妻の手に届く奇跡のラブストーリーです。
【島根県出雲市出身の陸軍軍属 山之内辰四郎。
フィリピンのマニラ船舶司令部に所属。
昭和19年、戦況悪化でルソン島のジャングルへ後退する前に望郷の思いから椰子の実に友人の宛名と自分の名前を書いて、そのまま海に流しました。
その1年後には山之内さんは戦死。しかし、海に流した椰子の実は31年間にも渡り、海を漂流し続け、島根県大社町稲佐の浜へ流れ着きました。
1975年7月のこと魚釣りに来ていた出雲市小山町の男性に発見されました。当初、何が書かれているかを読み取れず、数日後に表皮が乾いて、書いてある文字が読めるようになりました。
所原村 飯塚正一
それは、この近所の出雲市に在住の飯塚さんのことでした。飯塚さんはその椰子の実を受け取ります。しかし肝心な差出人の名前が読み取れません。
衛生兵として病院船に乗船していた飯塚さんは、
広島の原爆で被爆しており、思うようにならない体を押しながらも、懸命に心当たりを訪ね、当時の戦友を訪ね、昔の名簿を調べました。その数は百人にもなったそうです。
年が明けての正月に餅つきをしていた際に
そう言えば「あの人から手紙を預かって、奥さんから言いつかった餅を大変喜んでおられた」と、
ふと山之内さんの名前を思い浮かべました。
山之内さんと飯塚さんは同郷であり、
同じ青年団で活動を共にしていて、
昭和19年にマニラで再会していました。
病院船で日本とマニラを行き来していた飯塚さんが、
山之内さんとその家族との橋渡し役をしていたのです。
山之内さんが当時
「もう日本に戻れないかもしれない」
と言っていたのを思い出しました。
山之内さんの家を訪ねましたが、既にそこは廃屋となり誰もいませんでした。
しかし、世の中とは不思議なもので、
偶然にも墓参りに来ていた山之内さんの妻きよ子さんと会い
その椰子の実を見せました。
きよ子さんの表情が変り、突然泣き崩れました。
きよ子さんが大切に持っていた手紙には
「近く飯塚君が帰国する」などと戦地での飯塚さんとの様子が克明に記されていました。
筆跡もまったく同じものでした。】