昭和21年 天皇制への嫌悪から日本共産党に入党したことがある渡辺恒雄は『安倍首相に伝えたい「わが体験的靖国論」』という記事の中で
結論として "「A級戦犯」が分祀され
ない限り、靖国神社へは国家を代表する政治的権力者は公式参拝すべきではない" と明言し
日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことであり、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒すとまで言っている。
更に先の戦争は昭和3年の「パリ不戦条約」
(63か国が参加、日本は翌4年に批准、ナベツネ4歳)という世界初の、国際理想主義を体現する不戦条約に違反しているから日本には戦争責任があるとし満州事変以降の戦いを侵略戦争と位置づけた。
【パリ不戦条約】
日本を代表する国際法学者の信夫淳平(しのぶ)は次の様に不戦条約を評している。
「ケロッグ氏の原提案は戦の無条件的抛棄であった。然るに仏英両国の解釈の限定を受けたる結果として、本条約は最早や戦の抛棄を構成せざるものとなった。当事国各自が勝手に解釈し、勝手に裁定する所の自衛という戦は、本条約に依り総て認可せられる。これ等の例外及び留保の巾さを考うるに於ては、過去一百年間に於ける何れの戦も、また向後のそれとても、一つとしてその中に編入せられざるものありとは思えない。本条約は戦を抛棄するどころか、之を公々然と認可するものである。戦なるものは過去に於ては、適法でも違法でもなき一種の疾病と見られた。然るに今日は、この世界的の一条約に依り、事実総ての戦は公的承認の刻印を得たのである。本条約第一条の単なる抽象的の戦の放棄は、本条約に付随する解釈に依りて認可せられたる具体的の戦の前に最早や之を適用する余地は全然無いのである。」(Borehard & Lage,Neutrality for the U.S.,pp.292-3)
信夫氏は一貫して、この条約には世界の平和主義者たちがもて はやすほどの「効能はない」と否定的であった。
「戦争の絶対廃止」などは到底無理な話だからであり、また「大概の戦 争」は自衛権を大義に行なわれるからである。
特に自衛権の濫用を防ぐ制度が確立しない限り、不戦条約の類がいくつあ ろうが、「何の役にも立つものでないといふのが私の固い信念」
だとも述べている。
条約批准に際し、アメリカは、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出した。
またイギリスとアメリカは、国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行った。
つまり自衛戦争であれば条約違反とはならず、侵略の定義もきまっていない時に何をもって侵略戦争とみなすのか。
信夫氏の言う役立たずの条約で何が判断出来るのだろうか、すでに渡辺氏の主張は崩れ去り私的ルサンチマンは単なる戦争への野次か文句程度に成り下がった。
ならば、一歩進んで9カ国条約についても考えたい。大正11年のワシントン会議に出席した9か国、
アメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約である。
この条約は、中国に関する条約であり、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図ったものである。
【9カ国条約】
基盤とする外交姿勢を協調外交(幣原外交参照)と呼び、代々立憲民政党内閣の外相幣原喜重郎らによって遵守されてきた。
しかし、大正15年・昭和元年に蒋介石の北伐が開始され、同年に万県事件、
昭和2年に南京事件や漢口事件が発生すると、日本国内では協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」として強く批判しはじめた。
昭和6年の満州事変は九カ国条約で定められた中国の領土保全の原則に違反しているとして、各国から非難を受けた。
それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに本条約を遵守する声明を公表し続けた(しかし1860年の北京条約ではウスリー川以西が清国の領土と規定されたが、中華民国はこの条約を無効と主張していた)。
昭和7年に成立した満州国は中華民国の義務を継承するとし、また満州国承認国に対しても門戸開放・機会均等政策を行っていた。
しかし、昭和9年11月に満州国において石油専売法が公布されると、イギリス・アメリカ・オランダの三ヶ国は未承認の満州国ではなく日本に抗議した。
それに対し日本は、日本にとって満州国は独立国であるため干渉することはできないこと、そもそも門戸開放・機会均等は特定の第三国に通商上の独占的排他的特権を与えないことに過ぎないことなどを伝えただろうとされている。
しかし、昭和12年7月7日に起きた盧溝橋事件にはじまる支那事変でも不拡大方針を発表しているにもかかわらず、戦線が徐々に拡大していったので、日中和平を仲介すべく、昭和12年11月にブリュッセルで九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定された。
これを受けて、休戦を主張する石原莞爾らの協力もあり、第1次近衛内閣外務大臣の広田弘毅はトラウトマン工作を開始した。蒋介石がドイツのトラウトマンを仲介にして立ててきた講和の要求であったから、日本側はこの会議への出席を拒否。
次の内閣の時にはアメリカから「日米了解案」が近衛に提案されましたが、これもうやむやで流し、これにより本条約は事実上無効となり、ワシントン体制は名実ともに崩壊した。
この提案は後に太平洋戦争の引き金となった日本の要求をすべて叶える内容で(満洲国承認及び八紘一宇の了解)これを容れておけば太平洋戦争は日本の不戦勝になる物であった。
何故ならこの時期、イギリス本土がドイツ空軍の猛爆にさらされ英国が最も危機に瀕しており、アメリカも低姿勢だったからだ。
その後も、日本やその他加盟国も和平の道を探るも、昭和13年1月16日には「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明が発表され、和平への道は閉ざされた。
ヒトラーのようにこちらの要求を突きつけて飲ませるタイプの外交にこだわった政治家でヒトラーのコスプレをしたり、共産主義に傾倒するなど、主義主張に全く骨のない人物。
更に、近衛文麿内閣総理大臣は汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。こうして、支那事変は泥沼化し、日本の国際的孤立が加速することとなる。
拡大と孤立、対米開戦に近衛が与えた影響は計り知れない。
関東軍参謀本部が昭和6年7月頃に作成した「情勢の判断に関する意見」という資料がある。
そこには、
『満蒙ノ解決ハ第三国トノ開戦ヲ誘起スヘク戦勝テハ世界思潮ハ問題ニアラサルヘシ』
満蒙問題の解決は、中国以外のとの開戦につながるだろうが、戦いに勝てば、世界でどう思われようが問題ではない
『好機会ノ偶発ヲ持ツハ不可ナリ機会ヲ自ラ作ルヲ要ス』
チャンスを待つのではなく、自分達で作らねばならない
『九国条約ニ関スル門戸開放機会均等主義ヲ尊重スルトシテモ満蒙ニ於ケル既得権益ノ実効ヲ収ムル手段ヲ理由トセハ兵力ノ使用何等問題ナカルヘシ』
九ヵ国条約の門戸開放機会均等主義を尊重するのだとしても“既得権益を実質的に有効にする為”であれば兵力の使用も何の問題もないはず
『九国条約ヲ尊重セサル場合世界各国ノ感情ヲ害スルコトアルモ之カ為帝国ニ対シテ積極的ニ来ルモノ幾何』
九ヵ国条約を尊重しない場合、世界の反感を買うだろうが、日本に対して積極策に出る国はどれほどあろう
『満蒙問題ノ解決ハ米蘇ト開戦ヲ覚悟セサレハ実行シ得ス』
満蒙問題の解決は米国ソ連との開戦を覚悟しなければ実行できない
『満蒙ヲ占領セハ直ニ之ヲ領土化スルヲ有利トス』
満蒙を占領したら直ぐに領土化すべきである
とある。
関東軍は「九ヵ国条約や国際世論は明らかに意識はしていたが、非難されても相手が積極策には出てこなければよい、出てきても結局は勝てばよい」と考えて、対米ソ戦争も視野にあった。
これは、現在の価値感では無謀で傲慢ともいえるが、恐慌にあえいでいた当時の世界で「帝国ニ対シテ積極的ニ来ルモノ幾何」という情勢判断の是非は、
実際に満州事変に対して米国が行った「スティムソン・ドクトリン」の発表という、いわば「口頭警告」に留まったことからも判断できる。
また、米国以外英仏の中国での立場は日本と似ており日本が満州国を作っても、それで勢力圏を侵されるのはソ連だけで、日本の占領が満州に止まっている限りにおいては問題はなかった。
つまり満州事変を当時侵略戦争であると認識する国は日本を含め皆無だったのだ。
支那事変と日中戦争という呼称の違いは明らかに
その戦いが侵略か自衛かを如実に表しており、東京裁判の受益者と言えどもある一定の反省と支那事変と呼び自衛の戦いであった事実は捨て去ってはならない。