沖縄 特別の日 6月23日
6月23日「慰霊の日」は沖縄県民にとって忘れることのできない特別な1日だ。
また今年もこの日がやってくる。
さとうきびの葉を風が揺らす光景が頭に浮かんでは消える、これは沖縄戦を知らない私でも極一般的なことだろう。
昭和42年に初めて訪れた沖縄に心を揺さぶられた寺島尚彦が作詞・作曲した、沖縄戦の悲劇を歌った『さとうきび畑』の影響だろう。
それから5年の昭和47年沖縄は本土復帰を果たした。本土が占領下から独立したのが昭和27年、そこから20年間の失われた時が本土との温度差を作りだす。
その温度差を更に広げるのが地獄の地上戦が日本本土で唯一行われ、県民と日本兵20万人が共に戦い戦死したのはここ沖縄だけだ。
沖縄の特別は"共に戦い"と"失われた20年"だろう
NHKの番組で沖縄戦を体験した県民のインタビューで次のようなやり取りを見た。
女学生がセメントこねて
男子学生が担いで運んで来た
肩に食い込んだりしても
陣地を作るのは国の為だと
大きな家には少尉、中尉
幹部が寝泊りするわけです
奉仕というよりも勝つために
軍隊に協力しなさいですから
思想信条もないですよ
勝ち戦のためにやれでしょ
今考えたらばかなことをしたなと
それで犠牲になったなと
沖縄の特別が歌となり、体験者の特別が国の批判に使われ温度差を広げる。更に特別な感情「捨て石にされた」となる。
23日は沖縄戦における20万人を越す戦死者のうち、約半数に近い、9万4000人余りの戦死者が、兵隊以外の一般県民だ。
この沖縄戦で、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将が糸満の摩文仁で自決した日が昭和20年6月23日の未明とされている。そしてこの日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ、沖縄慰霊の日が制定され県民の休日となった。
この事実に県民と日本軍の溝は無い。
6月23日「慰霊の日」は沖縄県民にとって忘れることのできない特別な1日だ。
また今年もこの日がやってくる。
さとうきびの葉を風が揺らす光景が頭に浮かんでは消える、これは沖縄戦を知らない私でも極一般的なことだろう。
昭和42年に初めて訪れた沖縄に心を揺さぶられた寺島尚彦が作詞・作曲した、沖縄戦の悲劇を歌った『さとうきび畑』の影響だろう。
それから5年の昭和47年沖縄は本土復帰を果たした。本土が占領下から独立したのが昭和27年、そこから20年間の失われた時が本土との温度差を作りだす。
その温度差を更に広げるのが地獄の地上戦が日本本土で唯一行われ、県民と日本兵20万人が共に戦い戦死したのはここ沖縄だけだ。
沖縄の特別は"共に戦い"と"失われた20年"だろう
NHKの番組で沖縄戦を体験した県民のインタビューで次のようなやり取りを見た。
女学生がセメントこねて
男子学生が担いで運んで来た
肩に食い込んだりしても
陣地を作るのは国の為だと
大きな家には少尉、中尉
幹部が寝泊りするわけです
奉仕というよりも勝つために
軍隊に協力しなさいですから
思想信条もないですよ
勝ち戦のためにやれでしょ
今考えたらばかなことをしたなと
それで犠牲になったなと
沖縄の特別が歌となり、体験者の特別が国の批判に使われ温度差を広げる。更に特別な感情「捨て石にされた」となる。
23日は沖縄戦における20万人を越す戦死者のうち、約半数に近い、9万4000人余りの戦死者が、兵隊以外の一般県民だ。
この沖縄戦で、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将が糸満の摩文仁で自決した日が昭和20年6月23日の未明とされている。そしてこの日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ、沖縄慰霊の日が制定され県民の休日となった。
この事実に県民と日本軍の溝は無い。