昨日のお月様はとても綺麗でした。
久し振りの仕事を終えて帰りの道を運転しながらお月見しました。
二日間、非日常的な空間に居ましたのでとても疲労しています。
仕事でクラフトフェアに出店していたのです。
家人が癌に罹ったり、コロナの影響でかれこれ七年ぶり位の出店でした。
段取りなどすっかり忘れていてどうなる事かと少し不安もありましたが
なんとか昔のように商売をして来ましたよ。
そこでは面白い事がいっぱいありました。
昔からの知り合いに何人か会って思い出話に花を咲かせたり、
新しい人と出会って世界を広げたり、
新鮮な体験でした。
中でも不思議な出会いは二軒隣りに店を出していた木工作家の人です。
本当に縁というものが有るんだと感じる出来事でしたね。
その方と話すきっかけになったのが
魚鱗草と言う高山植物がキッカケです。
日曜日の朝、知り合いが通り掛かりその手に妙なものを持っているのに気がつきました。
声を掛けて持っているそれは何?と訊くと
山の中で見つけた魚鱗草だというのです。
その名に聞き覚えのあった私が興味を示すと知り合いはその植物を一本上げるよと言って
置いて行きました。
とても珍しい植物でしたので午後になって暇な時間に隣のお姉さんにそれを見せると、
その又隣で店を出していた男性がそれ知ってますよ、と言って話に参加して来ました。
彼は、自分の実家は飯田の山奥で家の周りのあちこちでみた事があると言うので、
実家の場所をさらに尋ねると、そこは私たちが時々湧き水をもらいにいく村でした。
仕事中でしたのでそれ以上の話はなかったのですが、
一日が終わって片付けも済んだ後に何気なく先ほどの男性に
山奥って言ってたけどどの辺りなんですか?と尋ねました。
すると隣の天龍村に近いところですと言うので、まさかとは思ったのですが、
色々と訊いて行くと、
何と彼の実家は私達の知っている家だったのです。
本当にびっくりしました。
なんと言う奇遇でしょう。
その家は本当に山奥にあるのです。
あの家で生まれた人と今こうして出会っている事が不思議でたまりませんでした。
私たちが知っているあのお婆ちゃんがこの人のお母さん?
にわかには信じられない話です。
だって本当に山奥の一軒家なんですよ。
目の前に立っている人の両親と私たちは何年も前に出会っていました。
初めて会った時、お婆さんは九十四歳お爺さんは百一歳だったと思います。
県道から細い渓流沿いの道を二十分ほど登って行き、そこで車を下りると、
三十分くらい綴織の山道を歩かなければなりません。
なぜ私たちがそこへ行ったのかというと、戸倉山という山に登るためにはそこへ行くしかなかったのです。
戸倉山への登山道はお婆さんの家の物置の中を通っています。
だから登山者は必ずお婆さんに出会い、おばあさんはいつも帰りに寄ってお茶を飲んで行きなさいと声を掛けてくれるのです。
そんな訳でお婆ちゃんと知り合った私たちはそれから何度かお婆ちゃんに会いに行ったものです。
最後に行ったのはいつだったかお爺ちゃんが百四歳になりついに病院に入院した時でした。
お婆ちゃんに寂しいだろうと問うと、
寂しい事なんてあるもんか、それどころか世話をしなくて良くなったので清清していると言い放つのです。
どうやら最後はお爺ちゃんの面倒を見ることに疲れ切っていたのでしょう。
そりゃそうだわ、その頃お婆ちゃんだって九十七、八ですよ。
山奥にたった二人っきり、どちらかが倒れれば面倒を見るのは相方しかいないのです。
この話をすると、
なぜ行政に助けを求めなかったのか、とか
いろいろな理屈を言う人が居られますが、
もちろん行政は助け舟を出しましたよ。
でもそれはお婆ちゃんには要らぬお世話でした。
何より、ここで生まれ育ってここで暮らしたお爺さんをここで死なせてあげたいと言う思いが強かったのです。
お婆ちゃんはテレビも見ていたので世の中のこともよく知っていました。
頭脳明晰で記憶力も良く
昔の話をいっぱい聞かせてもらいました。
その村にまだ人がいっぱい住んでいて神社でお祭りもあった事、
人がだんだん居なくなり、その神社が廃れた後は二人が神社を守って来た事。
神社の祭りに立った背の高い幟のこと、賑やかだった祭囃子が山にこだました事、
お婆ちゃんは昨日のことのように話してくれるので、
会話はとても楽しくお婆ちゃんの物知りに驚くばかりでした。
願わくばこんな年寄りに私もなりたい、と
そう思わせる強く凛々しく美しいお婆ちゃん。
そのお婆ちゃんの末っ子と此処でこうして会えるなんて
全く想像だにしなかった事が起こりました。
そしてそのお婆ちゃんが三年前に百二歳で亡くなった事を知ったのです。
仕事をしたクラフトマーケットは、自分の好きな場所を選ぶ事ができます。
広い場所にまだ幾らでもフリーな所があったのに、
なぜかお婆ちゃんの末っ子は後から来て私達の隣の隣に店を構えたのです。
何か引き寄せる力が働いたのか、とも考えたくなりますよね。
お婆ちゃんは最後まで明晰なままだったらしいです。
さすがに百歳になって山奥で一人は無理だと観念したらしく村の施設に入ったものの、
入居者のほとんどは認知症でお婆ちゃんは介護士を話し相手にしていたと聞きました。
またちょうどその頃、足繁く訪れていた長男が亡くなった事もあり、
本当に寂しくなってしまったのかもしれません。
長男さんに会ったことはありませんが、
お茶のお菓子がいつも揃っていたことや登って行く綴れ折の山道が綺麗に整備されていたのも、
皆長男さんの仕事でした。
旦那さんを失った後は特に訪ねてくる長男だけが頼りだったのです。
その人もなくなって登山者に出してあげたいけどお茶もお菓子も自由に手に入らなくなってしまったら、
お婆ちゃんの楽しみは何もなくなってしまったのでしょう。
それで施設に入る事を認めたらしいです。
確かお婆ちゃんは六人の子供を産んだと言ってた気がします。
私が一番びっくりした話ですが、
もちろん自宅出産ですよ。
その出産を手伝って助産師の仕事をしたのが何と義理のお父さんだと言うから驚きです。
義母じゃなくて義父が
赤ちゃんをとりあげてくれたと言いました。
とても優しい親切なお義父さんだったと何事もないかのように話してましたね。
当たり前のように話すお婆ちゃんに感心したものです。
お婆ちゃんの家は古の時から人々が歩いた巡礼の道筋にありました。
信州の民が歩く巡礼の道、秋葉街道に面する最後の人家です。
その昔まだ人類が歩いて移動することしか知らなかった時代から、
火を信仰する人々が遠く遠州の秋葉様まで歩いた道があります。
今ではすっかり草に埋もれたその街道筋に村が生まれ、時と共に廃れていきました。
お婆ちゃんの家はその最後の一件でした。
お婆ちゃんは炭と塩を物々交換するために片道五時間掛けて山道を歩いた事もあると言ってました。
明け方から歩けば午前中に村に着くから用事を済ませて午後二キロを辿ると、
一日で本当にいろんな事ができるものですよね。
でも怠けていればあっという間に過ぎてしまう時間です。
お婆ちゃんのことを思い出すと向かいの人の生きる気概は凄かったんだなと、
感心するばかりです。
それにしても嬉しい偶然で再びお婆ちゃんの思い出に浸る事ができました。
きっとお婆ちゃんが引き寄せてくれたのでしょう☆