彝の福田久道宛書簡(大正9年10月2日)にある「お嶋の延長である―『エロシェンコ』の肖像」、これはどういう意味であろう。
なぜ彝(または福田の原稿)は、裸体ならぬ「エロシェンコ」を「お嶋の延長」と呼んだのか。
本当は「お島をかいた『あの裸体』を一層徹底」して、そして、それよりもだいぶ大きな80号の裸体画を描きたかったはずだ。これこそ内容的に「お嶋の延長である」べき作品のはずだ。(因みに「裸体」はF40号であり、同年の「田中館博士の肖像」はF20号である。)
「あの裸体」は茨城県近代美術館にある上記の「裸体」に相違ないが、お島を描いたその作品の「延長」が「エロシェンコ」というのはどうも飛躍しすぎだろう。
しかしお島を描いた別の作品があるとしたらどうだろう?
すなわち大正11年の金塔社第2回展に出品された「女」(下図)、
この作品が「エロシェンコ」以前に、もしくは並行して、描かれていたと考えたらどうか。
実はこのように考えてみると多くのことが、筋が通って非常によく理解できるようになる。
彝は「(あの絵では色数を出来るだけ節約し殆んど二三色でかいた)」と「お嶋の延長である―『エロシェンコ』の肖像について」の言葉に続けて括弧内に書いている。(ここで言う「あの絵」とはお島を描いた作品を指すのか、「エロシェンコ」を指すのか曖昧だが、福田久道は、「エロシェンコ」と捉えて自らの彝論である「人及び芸術家として」にこの彝の言葉をほとんどそのまま取り入れ、「挿入」した。ただしこの彝論では「お嶋の延長である」の言葉は見られず、単に「今度のエロシェンコ氏の肖像に就いて」となっている。)
そして、次のように続けている。
「方法と材料とは簡単な程いい。思想が充ち、効果を見る眼が明らかになり、腕が相当熟練して来さえすれば、方法や材料は如何に簡単でも充分雄弁に、且つ『堅牢不壊』の感じを与えうるものである」。
実際「女」も、その大きさ、色彩(殆んど二三色)、筆触が「エロシェンコ」とほぼ同一である。
さらに、この作品の額縁も、以前このブログでも書いたように、同一であることが確認しうる。
実に「女」と「エロシェンコ」とは様式的に見れば、双子の姉妹のように生まれた作品なのである。
ただ前者が、後者よりも早く描かれたとする説はこれまでに聞いたことがない。
「女」のモデルがお島であると同定している解説も、これまでの展覧会図録にはなかったように思う。
モデルについては、それが誰であるか、はっきりとは分からないから、彝の展覧会図録の中ではおそらく誰も言及していなかった。
茨城の「裸体」のモデルは、書簡に明示されているから、お島であることは明らかであるが、それ以外に彝が描いたお島は、実は明確には知られていなかった。
そうした中で、ChinchikoPapaさんのブログ「落合道人」の<小島キヨが見た中村彝>の記事や<宮崎モデル紹介所の物語>の記事は、「女」のモデルをお島=新島シマと同定している。これはきわめて注目に値しよう。
もし「女」のモデルがお島であり、この作品が「エロシェンコ」よりも早く、もしくはほぼ並行して描かれていたとすれば、後者はまさしく「お嶋の延長」としての作品となると言ってよい。
急遽、必死に「エロシェンコ」を描いていた時、「女」がまだ未完成であったとしてもよい。
それでも「エロシェンコ」は、確かに「お嶋の延長」としての作品には違いない。
このように考えてみると、10月23日の中村清二宛て書簡はきわめて重要である。
「私はこの九月十六日、丁度あの『エロシェンコの肖像』を描き終わったその晩から倒れて臥たきりになって居ります。・・・午前モデルを描き午後エロシェンコを描いてほとんど一日続け様にやったので、それが障ったらしいのです。」
彝は「エロシェンコ」と同時に、午前中は確かに「モデル」を描いていたのだ。
そしてこの「モデル」が誰で、何の作品なのかは実はまだ誰も語ってはいない。
すなわちこの「モデル」こそが後述のモデル斡旋所から来たモデルであり、それを描いた作品が「女」(もしくは「椅子による女」)であると考えるのが残された作品の可能性から考えれば最も相応しい。
というより、それ(ら)以外には、見当たらない。(失われてしまった作品があるとはっきり言えるなら別だが。また、裸体の群像作品である「泉のほとり」は、実際にはまだ「計画」段階と思われるが、その準備のための作品として、「モデル」を描いていたことは考えうる。)
実際「女」も大正9年作とする説も以前から少なくなかったのだ。
森口多里や鈴木秀枝は、この作品を大正9年作としている。
「女」は、「エロシェンコ」と並行して描かれ、後者の完成後に、つまり大正10年になって再び手を入れたということも考えうる。
モデルがお島(「椅子による女」の場合は小島キヨ)であることを裏付ける書簡として興味深いのは、彝の9月2日の洲崎宛て書簡だろう。
「僕はどうかしていいモデルを見つけねばならない。…早速宮崎(モデルの周旋屋)へ多分の手数料を封入して周旋方を依頼しておいた。・・・」
やはり、<宮崎>に依頼して、エロシェンコ直前にお島、または小島キヨを描き始めていた可能性が大きいと言えるだろう。
いずれにしても、彝が言う「お嶋の延長」としての「エロシェンコ」は、かくして納得のいく言葉となる。単に技法や様式的な面で「延長」と言っているのではない。
あるいはこうも言えるかもしれない。逆にこの言葉があることによって、午前中に描かれていた「モデル」をとった作品とは、(小島キヨというより、むしろ)お島がモデルであったのではないか、と。
このように考えていくと「女」の制作年は今のところ、大正9年から10年としておくのが最も妥当であるように思う。
※モデルとともに「女」を描いている途中の彝の写真がある。この写真、『芸術の無限感』では大正10年としている。
なぜ彝(または福田の原稿)は、裸体ならぬ「エロシェンコ」を「お嶋の延長」と呼んだのか。
本当は「お島をかいた『あの裸体』を一層徹底」して、そして、それよりもだいぶ大きな80号の裸体画を描きたかったはずだ。これこそ内容的に「お嶋の延長である」べき作品のはずだ。(因みに「裸体」はF40号であり、同年の「田中館博士の肖像」はF20号である。)
「あの裸体」は茨城県近代美術館にある上記の「裸体」に相違ないが、お島を描いたその作品の「延長」が「エロシェンコ」というのはどうも飛躍しすぎだろう。
しかしお島を描いた別の作品があるとしたらどうだろう?
すなわち大正11年の金塔社第2回展に出品された「女」(下図)、
この作品が「エロシェンコ」以前に、もしくは並行して、描かれていたと考えたらどうか。
実はこのように考えてみると多くのことが、筋が通って非常によく理解できるようになる。
彝は「(あの絵では色数を出来るだけ節約し殆んど二三色でかいた)」と「お嶋の延長である―『エロシェンコ』の肖像について」の言葉に続けて括弧内に書いている。(ここで言う「あの絵」とはお島を描いた作品を指すのか、「エロシェンコ」を指すのか曖昧だが、福田久道は、「エロシェンコ」と捉えて自らの彝論である「人及び芸術家として」にこの彝の言葉をほとんどそのまま取り入れ、「挿入」した。ただしこの彝論では「お嶋の延長である」の言葉は見られず、単に「今度のエロシェンコ氏の肖像に就いて」となっている。)
そして、次のように続けている。
「方法と材料とは簡単な程いい。思想が充ち、効果を見る眼が明らかになり、腕が相当熟練して来さえすれば、方法や材料は如何に簡単でも充分雄弁に、且つ『堅牢不壊』の感じを与えうるものである」。
実際「女」も、その大きさ、色彩(殆んど二三色)、筆触が「エロシェンコ」とほぼ同一である。
さらに、この作品の額縁も、以前このブログでも書いたように、同一であることが確認しうる。
実に「女」と「エロシェンコ」とは様式的に見れば、双子の姉妹のように生まれた作品なのである。
ただ前者が、後者よりも早く描かれたとする説はこれまでに聞いたことがない。
「女」のモデルがお島であると同定している解説も、これまでの展覧会図録にはなかったように思う。
モデルについては、それが誰であるか、はっきりとは分からないから、彝の展覧会図録の中ではおそらく誰も言及していなかった。
茨城の「裸体」のモデルは、書簡に明示されているから、お島であることは明らかであるが、それ以外に彝が描いたお島は、実は明確には知られていなかった。
そうした中で、ChinchikoPapaさんのブログ「落合道人」の<小島キヨが見た中村彝>の記事や<宮崎モデル紹介所の物語>の記事は、「女」のモデルをお島=新島シマと同定している。これはきわめて注目に値しよう。
もし「女」のモデルがお島であり、この作品が「エロシェンコ」よりも早く、もしくはほぼ並行して描かれていたとすれば、後者はまさしく「お嶋の延長」としての作品となると言ってよい。
急遽、必死に「エロシェンコ」を描いていた時、「女」がまだ未完成であったとしてもよい。
それでも「エロシェンコ」は、確かに「お嶋の延長」としての作品には違いない。
このように考えてみると、10月23日の中村清二宛て書簡はきわめて重要である。
「私はこの九月十六日、丁度あの『エロシェンコの肖像』を描き終わったその晩から倒れて臥たきりになって居ります。・・・午前モデルを描き午後エロシェンコを描いてほとんど一日続け様にやったので、それが障ったらしいのです。」
彝は「エロシェンコ」と同時に、午前中は確かに「モデル」を描いていたのだ。
そしてこの「モデル」が誰で、何の作品なのかは実はまだ誰も語ってはいない。
すなわちこの「モデル」こそが後述のモデル斡旋所から来たモデルであり、それを描いた作品が「女」(もしくは「椅子による女」)であると考えるのが残された作品の可能性から考えれば最も相応しい。
というより、それ(ら)以外には、見当たらない。(失われてしまった作品があるとはっきり言えるなら別だが。また、裸体の群像作品である「泉のほとり」は、実際にはまだ「計画」段階と思われるが、その準備のための作品として、「モデル」を描いていたことは考えうる。)
実際「女」も大正9年作とする説も以前から少なくなかったのだ。
森口多里や鈴木秀枝は、この作品を大正9年作としている。
「女」は、「エロシェンコ」と並行して描かれ、後者の完成後に、つまり大正10年になって再び手を入れたということも考えうる。
モデルがお島(「椅子による女」の場合は小島キヨ)であることを裏付ける書簡として興味深いのは、彝の9月2日の洲崎宛て書簡だろう。
「僕はどうかしていいモデルを見つけねばならない。…早速宮崎(モデルの周旋屋)へ多分の手数料を封入して周旋方を依頼しておいた。・・・」
やはり、<宮崎>に依頼して、エロシェンコ直前にお島、または小島キヨを描き始めていた可能性が大きいと言えるだろう。
いずれにしても、彝が言う「お嶋の延長」としての「エロシェンコ」は、かくして納得のいく言葉となる。単に技法や様式的な面で「延長」と言っているのではない。
あるいはこうも言えるかもしれない。逆にこの言葉があることによって、午前中に描かれていた「モデル」をとった作品とは、(小島キヨというより、むしろ)お島がモデルであったのではないか、と。
このように考えていくと「女」の制作年は今のところ、大正9年から10年としておくのが最も妥当であるように思う。
※モデルとともに「女」を描いている途中の彝の写真がある。この写真、『芸術の無限感』では大正10年としている。