中村彝の「椅子によれる女」のモデルと制作年について、ChinchikoPapaさんのブログ(『落合道人』)が、早くも2008年に書かれた「小島キヨが見た中村彝」という記事で重要な見解を披露している。
それによればモデルは後に辻潤の妻となる小島キヨという女性だった。そして制作年も大正10年(頃)ではなく、大正9年7月と述べている。
この優れた作品についてモデルが誰であるかは、私の知る限り、これまでの展覧会図録では言及がなかったように思う。
制作年についても、Papaさんが指摘しているように、9年あるいは10年(頃)とされる場合がある。
モデルと制作年について、このように明確に書いてある作品解説が他にないとすれば、この記事はかなり参考になるだろう。
ChinchioPapaさんは、主に倉橋健一氏の『辻潤への愛』に依拠しつつ、この記事を書いている。
ただ、注意しなければならないことがある。
Papaさんが依拠した倉橋氏が大正9年7月18日の彝の書簡としているものは、実は大正5年7月18日の彝の手紙である。(こうしたことを考えると、小島キヨが彝のモデルを務め、この作品が描かれたとしても、それが果たして大正9年7月のことであったかどうかは、彝の資料側からの裏付けがどうしても弱くなってしまう。)
倉橋氏に直接確かめたわけではないが、おそらく氏は鈴木秀枝著『中村彝』に依拠してこれを大正9年のものとしてしまったのだろう。この本は好著であるがその66頁を見ると鈴木氏がこの手紙を大正9年としているのが分かる。(おそらくこれは鈴木秀枝氏の書簡日付の確認ミスであろう。)
倉橋氏が『辻潤への愛』を書くにあたって依拠した小島キヨの日記帳は、2冊あって古い方のそれは大正12年7月2日から始まるようであるから、大正9年時のモデルの話は、当日の日記には書かれようがない。そうすると、それは後年の回顧として、これら日記帳の別のどこかに出てくるのだろうか?
キヨは、昭和48年11月15日、家族と日動画廊での「中村彝展」を見に行って、「椅子によれる女」の横に立ち、カメラにおさまったと倉橋氏は書いているから、この辺のオリジナルの日記帳に、彼女が大正9年7月ごろにモデルになった話でも書いてあるのだろうか?そうだとすればそれは遠い過去の話ではあるが信用性はかなり増す。
それとも倉橋氏は大正5年7月18日の書簡を大正9年7月18日の書簡と誤解したまま、その中に出てくる「モデル」(「先週女のモデル雇って半身像を描いてみましたが、・・・」)を小島キヨと同定したため、その作品の制作年月を大正9年7月中旬のこととしているのだろうか?そうだとすれば、これは再考しなければならない。
だが、いずれにせよ、倉橋本に掲載されている広島県立三原女子師範学校時のキヨ(大正9年、18歳)とされる年齢以上に見える写真やキヨ38歳ころの写真を見ると、「椅子によれる女」(「婦人像」とも呼ばれることがある)のモデルとそのふくよかな相貌がかなり似ていることも確かだ。
だから、キヨ自身が彝のモデルになったとどこかで証言しているなら、それは否定すべくもないだろう。しかし、そうだとしても、少なくともそれが彼女が上京した年の7月であったのかどうかは、さらに検討が必要になると思う。
それによればモデルは後に辻潤の妻となる小島キヨという女性だった。そして制作年も大正10年(頃)ではなく、大正9年7月と述べている。
この優れた作品についてモデルが誰であるかは、私の知る限り、これまでの展覧会図録では言及がなかったように思う。
制作年についても、Papaさんが指摘しているように、9年あるいは10年(頃)とされる場合がある。
モデルと制作年について、このように明確に書いてある作品解説が他にないとすれば、この記事はかなり参考になるだろう。
ChinchioPapaさんは、主に倉橋健一氏の『辻潤への愛』に依拠しつつ、この記事を書いている。
ただ、注意しなければならないことがある。
Papaさんが依拠した倉橋氏が大正9年7月18日の彝の書簡としているものは、実は大正5年7月18日の彝の手紙である。(こうしたことを考えると、小島キヨが彝のモデルを務め、この作品が描かれたとしても、それが果たして大正9年7月のことであったかどうかは、彝の資料側からの裏付けがどうしても弱くなってしまう。)
倉橋氏に直接確かめたわけではないが、おそらく氏は鈴木秀枝著『中村彝』に依拠してこれを大正9年のものとしてしまったのだろう。この本は好著であるがその66頁を見ると鈴木氏がこの手紙を大正9年としているのが分かる。(おそらくこれは鈴木秀枝氏の書簡日付の確認ミスであろう。)
倉橋氏が『辻潤への愛』を書くにあたって依拠した小島キヨの日記帳は、2冊あって古い方のそれは大正12年7月2日から始まるようであるから、大正9年時のモデルの話は、当日の日記には書かれようがない。そうすると、それは後年の回顧として、これら日記帳の別のどこかに出てくるのだろうか?
キヨは、昭和48年11月15日、家族と日動画廊での「中村彝展」を見に行って、「椅子によれる女」の横に立ち、カメラにおさまったと倉橋氏は書いているから、この辺のオリジナルの日記帳に、彼女が大正9年7月ごろにモデルになった話でも書いてあるのだろうか?そうだとすればそれは遠い過去の話ではあるが信用性はかなり増す。
それとも倉橋氏は大正5年7月18日の書簡を大正9年7月18日の書簡と誤解したまま、その中に出てくる「モデル」(「先週女のモデル雇って半身像を描いてみましたが、・・・」)を小島キヨと同定したため、その作品の制作年月を大正9年7月中旬のこととしているのだろうか?そうだとすれば、これは再考しなければならない。
だが、いずれにせよ、倉橋本に掲載されている広島県立三原女子師範学校時のキヨ(大正9年、18歳)とされる年齢以上に見える写真やキヨ38歳ころの写真を見ると、「椅子によれる女」(「婦人像」とも呼ばれることがある)のモデルとそのふくよかな相貌がかなり似ていることも確かだ。
だから、キヨ自身が彝のモデルになったとどこかで証言しているなら、それは否定すべくもないだろう。しかし、そうだとしても、少なくともそれが彼女が上京した年の7月であったのかどうかは、さらに検討が必要になると思う。