美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

モネの「睡蓮、柳の反映」

2019-09-09 19:46:00 | 西洋美術
壊滅的な状態で日本に返還されたモネの「睡蓮、柳の反映」、この作品をデジタル復元しようとするNHKのTV番組を見た。

前にブルーレイで録画しておいたものを見終わったのでその感想などを書いておく。

まず、これを復元しようとする国立西洋美術館の関係諸氏の熱意に敬意を表す。

さて、フランスで「発見」され、日本に返還されたというこの作品、恐らくフランス当局では、疾うに展示を諦めて、保管庫にそのまま見捨てられたように眠らせていたものだろう。その意味で今回の「発見」に特別な驚きは感じない。

モネの作品に対するこの数十年、いや半世紀にわたる驚くべき評価の高まりが、こうした壊滅的な作品にまで特別な注意が向けられるようになったということではないか。

この作品を今回、AIなどを使ってできるだけ正確に復元しようする試み、その成果の復元画像は、TVでは大きく3段階にわたって提示されていた。

まず、筑波大のAI研究者による初期から晩年に至るモネの作品200点ほど(だったか?)を(因みにモネの油彩画は2000点以上ある)AIに何百万回も学習させて、白黒画像に色を着けた復元画像を製作する。これが第1段階。

だが、これは、西洋美術館の館長を始めとする美術館専門家に、作品の上半分と残された下半分とに様式的な違和感があると指摘されてしまった。また、特に復元された中央部の黄味がかった色彩に問題があるとされた。

様式的な違和感は、TV画像からでも確かに容易に感じられるものだったし、色彩については、私は作品上方にいくつかあった紺色がかった部分に最も問題があると感じた。

色彩の問題については、モネの初期作品からのデータ入力(データの価値評価に対する不適正さ)の影響が出たと考えられたようである。

初期作品や、もっと多くの真正なデータを入れるのは悪くはないとは思うのだが、復元しようとするのは、年代のはっきりしている晩年の作品であるから、初期作品のデータと晩年作品のデータを等価値のものとして処理したとするなら、あまり適切ではなかったということになる。

美術専門家からの違和感の指摘で、委託された復元担当者は、今度は晩年のモネの作品を多く所蔵するとマルモッタン美術館に向かう。

これが第2段階のデジタル復元画像に向かう最初。

ところが、モネ晩年の未完成作品が多いこの美術館を委託担当者が訪れて、大学のAI研究者とともに製作した第2段階の画像は、私が見るところ、全体になぜかグレーがかった臆病な色調になっていた。これは頂けない。

委託された担当者は、これまでの方法では白黒写真に色を付けていくという感じになって、平板になってしまうところに問題があると反省し、今度は、現存画家にモネのストローク(筆致)を模倣させ、それをAI研究者とともに、デジタル画像に取り入れて、第3段階の復元画像製作に取り組む。

AIによるモネ作品の客観的データ学習では、何百万回やっても、専門家を満足させることはできないと覚ったらしい。

こうして、モネ作品以外の人為的なデータも組み込まれることになった。確か500に及ぶモネの特徴的とされるストロークがデータ化されたようだ。

モネがほとんど無意識的になしている無数のストロークのうちから、意識的、人為的に選ばれたものが、つまり、そのような模倣的に制作された断片が、データ化されたということである。

こうして番組の終わりの方で提示された第3段階の復元画像、これには、西洋美術館の専門家も、前の画像に比べると、かなり満足した様子であった。

確かにストロークの効果を取り入れた第3段階の画像は、その力強さのみでなく、なぜか色彩まで見違えるほど修正されており、格段に良くなっていた。

色彩も青や深い緑の階調を中心にかなり脳の中に描かれた復元画像のイメージに近いと感じるものであった。

ただ、今度はストロークがやや過大に強調されているきらいがあることは否めない。

モネと同じ形態のストロークでも、すべて意識的に模倣して描いたものであるから、そこが目立ってしまうのかもしれない。

モネ自身のストロークは、意識的なものばかりでなく、むしろ大部分が無意識的な自然なコントロールから生まれたものである。

すなわち、作品全体に統一感や生動感を持たせつつ生まれたスピード感や力強さをもったストロークではないから、今度は逆にストローク自体がやや目立ち過ぎるものとなっているのだ。

もちろん、第3段階の復元画像は、前の段階よりは、かなり良いものではあった。が、それはAIによる何百万回の学習による成果とはおそらく言えないだろう。

モネの白黒画像が、AIの学習によって自動的にカラー画像にいっきに変換されたのではなく、全く逆に、段階を追うごとに人間的・人為的な要素が復元画像の中に入ってきたのではないか。

美術専門家の批評的眼差しや、データとなるモネの作品の選択領域の制限、現存画家のストロークなどの要素が、回を追うたびに復元画像の中に入ってきたというのが事実だろう。

これは、控え目に言っても、中間に立って最も苦労したであろう委託業者と、美術専門家の眼と、AI研究者との協働作業だったのだ。

だが、TVのナレーションは、なぜかAIの学習の成果を、繰り返し強調し、「何百万回」の学習などと言って、その驚くべき回数を強調しているのが不思議でならなかった。








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